国とは? ~【新世界秩序】への激流に向けて




一口に「国」と言っても人それぞれ千差万別の捉え方がある。

だから「愛国者」と言っても人それぞれその在り方が違うわけである。



国を語る前に「会社」とは何であるのだろうか?

これも人によって捉え方が違う。

以前、自民党の片山さつき議員が言っていた言葉がある。

『会社があるからみなさん働けるんですよ』と・・・・

彼女にとっての会社とは何だろうか?

何をもって会社としているのだろうか?


私は常々思っている。

「会社とは人の集合体」であると。

人が居て会社という組織が成立する。

つまり「人が先」である。

だが片山さんは「人は後」なのである。

会社という器があって、そこに人が「仕事を頂く」という見方なのだろう。




今から5000年ほど前、朝鮮半島には人は全く暮らしていなかった。

だからそこには「国家」なるものは存在していなかった。

やがて半島に人が暮らすようになるが、それでもまだ「国家」は発生していない。

その「人々を支配」する者が現れて初めて「国家」が生まれるわけである。

朝鮮半島という土地があっても、人が存在していなければ国は存在し得ず、人が暮らしていてもそれだけでは「国家」とはならないわけである。

「支配」というシステムがあって初めて「国家」たり得るわけである。


では「愛国」とは何であるか?


地域特有の「支配システム」が「国」であり、そのシステムに対する「愛」が『愛国』なのである。


では、今の日本という国のシステムに「愛」はあるか?

私は無い。

私が「愛国」と言うとき、それは「人」をもって「愛国」としている。

決して「支配システム愛」ではない。

だが、現在の支配側の人たちの愛国は「支配システム愛」なのである。

愛する「システム」を守るため、日夜「愛国」のために努力している。


では、どのような支配システムなら「愛せる」のか?


人はその「答え」を自ら掴み取らなければならないわけであるが、そこを考えない。

既存のシステムから抜け出せないまま「どうするか?」と考える。

国家というものの根本を考えずして、自らの中に「愛国心」など芽生えるはずも無い。

自分が何をもって「国」と捉えているのかも知らないままで、どうして自らの国の未来を変えられるというのか?




世界はグレートリセットへと着実に進んでいる。

最近の言葉で言うならば「立てたフラグを着実に回収しながら」進んでいるのである。

私的には「世界統一」は大歓迎である。

「新世界秩序」も大歓迎である。

だがそれは、現在の権力者たちが推し進めてたどり着こうとしている「未来の在り方」とは違うものである。

権力者が管理するという立場で見たときの「新世界」と、私が理想とする「新世界」は、言葉は同じでも中身も在り方も全く違う。


「神世界秩序」が理想であるが、ここにもまた落とし穴がある。

戴く「神」が違えば全く異なる世界が出来上がる。



世界は確実に「新世界」へと変わる。

それは止めようのない流れである。

だからそれを止める気など毛頭無い。

ただ、世界が「新しく」なったとき、その世界は自分が「愛せる世界」なのか?

それが大切なのである。


だから「どうなる?」などと考えながらぼ~っと待つ気は無い。

自分が理想とするものを必死で握りしめて離さない。

たった一つの「大切なもの」を握りしめて、この怒濤の流れに身を漂わせてゆく。

その大切なものとは「自分の中心軸」であるもの。

システムや器という「カタチ」ではなく「軸」である。



今までの「国」という既存のカタチに囚われていれば、やがて足下から崩れ去って立っていられなくなるだろう。

今までの「愛国」というものに囚われていては、自分の中心さえわからなくなるだろう。

今までの「神」を握っていれば、自らの中にあるはずの「神」を失うだろう。

自分自身の中に「神」を掴めていなければ、`まやかしの「神」を掴まされるだろう。

そしてやがて「神など居ない」と自分の口から発することになるだろう。

そして、誰かの言葉にすがり、まわりの行動にすがり、自分で何も決められず、案内されるままに行きたくも無い未来へと足を運ぶ。



『さあ、どうする?』



2年前に問いかけたこの言葉・・・

『どうする』という決意を持っている人はどれほど居るのだろうか?

「別に周りが慌ててもいないから」と、高をくくっているのだろうか?

みんなが慌てだしたとき・・・

それは「大津波に呑まれた」後である。

そのとき慌てて握りしめるものは何だろうか?

それはきっと、誰かが与えてくれた命綱だろう。

だがそれは・・・・・・・・






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