【法則】という理(ことわり)〈次元と神と龍の理〉 ~続・華厳の道より抜粋




神は理(ことわり)そのものであり、それらを司るのが神であるからには「神が理を曲げる」ことはないのである。

だからこの世の理を無視して神が何事かを成す・・・などということはそもそも絵空事である。

奇跡然としたものに囚われて、本来の在り方を忘れる「思考停止」は、自らの心が生み出す単なる逃避である。



次元の理(ことわり)


神の次元の自在なる理は、神そのものの次元だけで通用しうることであり、この三次元に於いては三次元の理を無視して神の次元の自在を現すことは出来ない。

だが、その妄想はいつまでたっても現実化などしない。

この三次元の理を超えた妄想はけっしてこの次元で現れることはない。


神がこの世に奇跡を起こすのは『言霊』のみである。

それは「道を指し示す」ということ。

例えば、九次元の神が三次元まで「言霊」を降ろすには、いくつもの『次元』の壁がある。

それは「言葉」ひとつとっても同じ事で、九次元の言語伝達がそのまま三次元で通用するわけがないということである。


神の言語はまるで「エネルギーの玉」そのものであり、その「玉」に「いくつもの意のエネルギー」が凝縮されている。

その「意の玉」にさらに強烈な「意」を持たせれば、それは「分け御霊」となる。

それを「神の子」と言う。

様々な「仏」の姿でそれらが現れるのは、相応の「意」を持たせた「分け御魂」ということである。

自らの意思を持ち行動する神の分身のような「御霊」として九次元から下がった七次元に生まれる。

さらにその意思を持った七次元の神の子は、今度は七次元の理で五次元に言霊を降ろす。

そして、五次元に存在しているはずの自らの「御魂」が「それ」を受け取って初めて三次元に「最初の神の意の玉」を「言霊」として受け取り、三次元の言葉に「翻訳」するのである。

この「三次元に翻訳」する際に、自らの魂に曇りがあれば、その翻訳は間違った翻訳となる。

感情で心が波立ち、欲望で心が散らかっていれば、「翻訳」そのものが簡単にねじ曲がる。


また、奇数の次元世界の狭間には偶数の次元世界がある。

それは上の次元と下の次元の狭間の次元。

上の「現実」と下の「現実」が溶け合う『雲』のような次元。

これが上の次元の「想念」と下の次元の「想念」が交わる「幽界」というわけである。

上から「神・幽・現」と世界が鏡餅のように重なる。

神(か)幽(が・芽)現(み・身)というわけである。


この理(ことわり)が上へと更に続いてゆく。

「三(現)四(幽)五(神)」三次元の現界にとって五次元は神界であり

五次元が現実である世界では「五(現)六(幽)七(神)」となる。

更にその上も然り・・・である。



三次元の法則は「物理の法則」の中にある。

だからそれを超えた奇跡というものは起こらない。

それが『神の理』そのものであるからだ。





龍は「次元を跨ぐ」もの。

いや、「跨ぐことの出来る存在」と言った方が正しいだろう。

五次元の意思を三次元で「起こせる」というよなものである。

だがそれは「エネルギー」として起こせる事のみ起こせる事象に限られる。

そのエネルギーとはある種の「振動」である「響き」。

その「響き」の荒さや細やかさという「諧調」の違いによって引き起こせる現象に限られるのである。

それは「言語」たり得ぬ「言霊」であり、人が言語化できるものではないため人には現せない。

人が言語として現せる「言霊」を超えた「秘めたる音」のエネルギーというわけである。

人をもって神がこの世に具現出来ないものを秘めたる者が「龍」というわけである。



そして「龍神」とは「神が次元を跨いだ姿」である。

自らが直接「下の次元」に関わるとき「龍体」となって下る。

だがそれは下の次元へ行けば「龍」であり、下の次元の人々が現しきれない「秘めたる音」の部分でしか活動出来ない。

それは理(ことわり)でありけっして曲げられないのである。

もしそれが曲がるなら、次元階層世界は崩壊する。


その「龍神」自体も、それが五次元の神はのか、七次元の神なのか、九次元の神なのか・・・というふうに様々あるわけである。

次元が上がるほどにエネルギーは強烈になっってくる。

また、響きの諧調によって感じるエネルギーの質は全く違う。

この「質」と「諧調」によって本来の高次元の神が色分けされてくる。

ゆえに龍にもそれぞれの神の色分けがあるが、光の色彩として表れるのは「響きの質」である。

それは「響きを起こす時にのみ」表れる色彩であり、そこに「神の意の本質」が見えるのである。

例えば、水が氷になるということは、木火土金水でいうところの「水は水」であり「氷は金(ごん)」である。

だから金と水を行き来する龍は、時に青く時に白くなる・・・と言った具合に木火土金水の「質の響き」によって変わる。

白の場合もあれば青の場合もあり、薄い水色の場合もあり斑のような模様の場合もあるわけである。

しかし土台となる五行が何れか?というものはちゃんとあるわけで、その龍がいずれの神の眷属龍かということとも繋がってくる。

これは非常にややこしいので、そこまで知る必要はないが、どのようなものなのかはおおよそ見当がつくだろうと思う。



これら「秘めたる音」のことを仏教では「観世音」と言い、これを自在に見分けるのが「観自在」となる。

そして、これらの龍の力がいわゆる『観音力(かんのんりき)』であり、現界の自然現象の五行に対して「神が直接的に(人を介さず)意を現出」させる力の源である。



続く・・・・

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