神懸かり ~続・華厳の道より


前回の記事からの続き・・・



だがそれ以外にも神が直接この三次元に意を現し具現する手段も存在する。

それは『依り代に宿る』ということである。

神の依り代となるものは、この世のあらゆるもの全てが依り代となり得る。

しかしそれでも具現するために必要最短な手段を選ぶ。

その対象となるのは「人」も同じである。


そもそも御霊の依り代でしかないのであるから、神が使うのも当たり前のことなのである。

その最たる呼び方が「神懸かり」というものである。


だが、この「神懸かり」の認識があまりにも人それぞれ好き勝手な想像で語るため、実際の神懸かりが曖昧なものとなってしまっているわけである。

そして、その曖昧さを利用して人は好き勝手に振る舞い、曖昧であるからそれがまかり通ってしまっている。

だからといってそれを正す方法はない。

わかる人があまりにも少なすぎるからである。

それこそ「人の誠」に委ねるしかないのである。


色彩のわからぬものに赤色を証明しろと言っても無理なのと同じことである。

だが、色彩のわからぬ者が、皆もわからないと思い込んでいて「青」を「赤」と言っても、わからない者にはわからないが、色彩がわかる者には「青」を「赤」と言っていることがわかる。

だから「誠」あるやなしやが明確に判別出来る。

だが、色彩のわからぬ者にそれを証明することは出来ないし、やるだけ無駄なことががわかるであろう。



大切なのはわかるとかわからないとかではない。

「誠」であることが大切なのである。

なぜなら、「誠」無き者に神は懸からないからである。


神懸かりとは「微か」なものである。

だがそれは人の真ん中に来るから、行動の中心となる。

気付こうが気付くまいが「誠」の人はしょっちゅう神懸かりしている。

知る知らないにかかわらず、自分の意思が神の言霊なのである。

神懸かりとはそういうものである。



だが、それ以外の場合もある。

神が直接「人を動かす」お筆先のような現象。

神が人に割り込んで直接操作する。

それは、人の意が混じり込まないように・・・というやり方で現れるわけである。



また、私の場合のように、まるで「同居」するようなカタチとして現れる場合もある。

だが、その「同居」のような感覚は初めの頃の感覚であって、やがて隔たりが無くなり一体化してゆく。

以前は思考なども「乗っ取られる」という感覚であったものが行うことに意味があると言える。

そして、この身体の最たる利用方法が『祓い』である。

そもそもが『祓い』の神であるから致し方ないが、この世(三次元)の人間が起こした穢れは三次元の者が清めなければならない。

神様が勝手に掃除してくれた・・・などと思ったら大間違いである。

穢れを打ち消すだけの清めのためのエネルギーを「誰か」が肩代わりしていることを人は知らねばならない。

何の関係も無い人が、誰かの穢れを清めているのである。

怒りや怨嗟や我欲の穢れを「被害」というカタチで清めていたりするのである。


これが理解できれば世界が「天地逆さま」であることがよく理解できる。




祓い


人は日々「穢れ」を吐き出している。

祓いとは、それら穢れを流す厠(かわや・川屋)のようなものであり、瀬織津姫という神はそんな厠を司る神ということである。

そこでこの身体が使われる・・・この身体と私のエネルギーは「川屋の水」というわけである。

つまりは、「祓うために穢れを引き受ける」のである。

なぜなら、「神が引き受ける」のだから致し方ない。


それに慣れるため、今までさんざんに訓練をされた。

あちらこちらと「穢れ」の溜まる場所へ赴き、「場」をきれいにするという訓練や、人の心の穢れを吸い出して、それをこちらの意思などお構いなしに勝手にこの身体に流し、『さあ浄化せよ』と言わんばかりのことをしてきた。


お筆先にしても私のような場合にしても『神懸かり』とはとてつもなく大変なものなのである。

だから「気付かないうちに」神懸かりしていた・・・というほうが良い。




『祓い』とは神を迎えるための「祝詞」の基本である。

『天津祝詞』という「禊ぎ祓い」のための祝詞

そして『天津祝詞の太祝詞』である「大祓祝詞」

神を迎えるにあたっては『清める』ことが第一である。

そして、清く澄み渡らねば『神懸かり』など起きない。

心の中が我欲や波立つ感情で曇っていれば、神懸かりなどけっして起きないのである。