節目の日記 2022年8月30日
海幸彦=建御名方神=火酢芹命=?
山幸彦=事代主神(八尋熊鰐・八咫烏)=彦火火出見命=倭宿禰命
大国主=天火明命=邇芸速日命
末子相続が出雲の「ならい」なれば「大国主=天火明命」となる。
三神の親神は木花咲耶姫と天穂日命
以前、籠神社に行った折、現れたのは「事代主神」
「事代主神」に呼ばれて「あるモノ」を渡された。
元出雲(亀山)に行った折も現れたのも「事代主神」
事代主神は自らの『業(カルマ)』を解いている。
そのために呼ばれたという側面もある。
海幸山幸の物語に出てくる「竜宮城」はまことの「竜宮城」に非ず
海神も海神に非ず
この海神=熊鰐の長=神日本磐余彦の一族
国譲り神話と海幸山幸の神話と浦島伝説は同一の物語
故・武内宿禰氏の言
「浦島太郎が竜宮城に行っている間に村は皆殺しにされたから、帰っても誰も居なかった・・・」
その理由として 「巫女が犯されたから」としている。
巫女=亀 助けた「浦島太郎」を除いて村人を皆殺しにしたと。
この話が示唆しているものは?
また彼はこうも言う 「邇芸速日命」は強すぎた。
おそらく最強であると。
それは恐らく「天穂日命と木花咲耶姫」という「観音」から生まれた「観音力」であるから。
天穂日命を大国主のもとへ使わした・・・というのはそういうこと(観音力の発現)だろう。
記紀では天穂日命は大国主にたぶらかされたとあるが、出雲の神話では天穂日命が降臨して大国主と共に国を平定した・・・とある。
この「天穂日命」を「瓊瓊杵尊」としたのだろう。
「天穂日」という神は確かに存在することを実感する。
しかし、「瓊瓊杵尊」という神の存在の実感が全くない。
「瓊瓊杵尊」はホツマツタヱでは「ニニキネ」として出てくる。
ホツマツタヱ自体は物部氏が天孫族の正当な末裔であることを示すために「竹内文書」を基にして書かれたモノである。
だが実際は「長髄彦一族」の娘との婚姻で大王家(天孫族)の「血筋」になったもので、それを確たるモノにするために書かれたのがホツマツタヱ。
国譲りとは、大国主が不在の時に事代主(倭宿禰命)を連れだし、その間に国を乗っ取った・・・という推測となる。
籠神社の「籠」は事代主(倭宿禰命)を籠に捉えたということであろうか?
それとも事代主自身が進んで向かったのであろうか?
同じ場所で天女(豊受姫)も捕らえられている。
その天女が「伊勢」で「天照」として祀られた。
騙した岩戸で騙した神を連れ出したわけである。
だが実質この神は「市杵島姫命」である。
天女の羽衣は実際は「比礼(ひれ)」である。
- 蛇比礼(おろちのひれ)
- 蜂比礼(はちのひれ)
- 品物比礼(くさぐさのもののひれ)
素戔嗚の十拳剣(とくさのつるぎ)を天照大神がかみ砕いて生まれた「三女神=比礼」である。
「羽衣を隠した」というのは三女神の一人を隠したことである。
つまり「羽衣を盗まれた天女(豊受姫)」とされているのは「市杵島姫命」である。
実際、伊勢に行くと金色の牛車に乗った「市杵島姫命」に出迎えられた。
事代主神の妻神は「櫛玉姫」という。
だが「玉依姫」との間にも櫛玉姫と同じ名の子を成している。
櫛玉、玉依共に「魂を降ろす」・・・という意味であり「巫女」であることがわかる。
つまりは「助けた亀」である。
山幸は「豊玉姫」を娶っている。
だが別の記では玉依姫は鵜葺草葺不合命と結婚している。
では鵜葺草葺不合命=事代主神か?
そうなると大国主の統治終了(国譲り)後、鵜葺草葺不合朝となり、大和政権へと移行していったということとなる。
邇芸速日命統治(大国主時代)の時代が終わり、事代主である鵜葺草葺不合命統治の時代へと移行した。
その後の出来事を凝縮して書かれているのだろう。
かつての強大な力を失った邇芸速日大王の一族に取って替わったのが鵜葺草葺不合政権であり、その時に「熊鰐族」という「海人族」の勢力を引き入れて政権奪還をした。
その後鵜葺草葺不合朝はやがて大和朝と名を変えていったのだろう。
それらの歪みを正すためにまずは「向津姫」が「事代主」と「綿津見(海神=熊鰐)」を連れて降りたのが神功皇后の時。
第一に「籠に入れた天女」を「天照」として伊勢に置いている「歪み」を正す。
事白主神と綿津見神を連れているのは「散らかした者が片づけなければならない」という「業(カルマ)」の解きゆえである。
改心した神々様・・・ということである。
先日、龍神会のある方の手を借りて「建御名方神」への「業」の解消がひとまず完了している。
およそ半年ほど掛かったか・・・
陰陽道の仕掛けのため苦戦したが、なんとか無事に終えられたと思う。
神への「仕掛け」が現実世界にも如実に影響を及ぼす。
歴史がそれをの実に示している。
そんなものがあちこちに張り巡らされているわけで、それら全てを「掃除」するにはまさに「神の手」が必要である。
だが人が神に呼応しなければ神の手は人の世に届かない。
届かないままであれば「泥海に還す」しかないのである。
三四五(みよいづ)の次元の話が混同しているため三次元思考では迷うだけである。
五次元思考が出来ないとなかなかわかりづらい。
0コメント