《追記》 道無き覚醒
何をもって【覚醒】とするかは人それぞれ様々ある。
されど、その多くは【現象】をもって【覚醒】とする。
【覚醒したつもり】のものはもっと多いが、それはどうでもいいのでここでは省く。
クンダリーニが開いた
チャクラが開花した
霊能力がついた
などというのは「ひとときの現象」に過ぎず、それらは「次」へ行くための通り道にすぎない。
大切なのは「道」を行くことであり、進んでいる「道」をさらに進化させるために起こる「現象」でしかない。
そして、進んでいる「道」に不要な「現象」は、その先においても「不要」なのである。
本当に必要なのは「現象」が起こった「変化」の先にある。
しかし、進むべき「道」無くただ「現象」が起こっても、その先何も変わらない。
変わらないから更に「現象」を求める。
せっかく「現象」が起こって「道」が一段階進んだとしても、その「現象」に囚われてしまえば「道」自体を見失う。
某真理教の教祖は、せっかくの自身の「現象」という体験を、「現象」に囚われることで「道」を見失った。
だが、「道」を見失った彼のもとに「現象」を目的とした者たちが集まり、「道」を見失ったまま突き進んで行ったがために、あらぬ方向へと進んでいくこととなった。
【覚醒】に憧れるのは【プロフェッショナル】というものに憧れているようなものである。
【プロ】を目指すのは良いが『何の』プロになるのか?
プロのピアニストになる
プロの野球選手になる
プロの歌手になる
プロの料理人になる
それが「道」というものである。
【覚醒】の現象を追いかけるだけでは、ただ単に「プロになりたい」という漠然とした「感傷」なのである。
【覚醒】の「現象」が起こったら、自分が超人にでもなれると思っているのだろうか?
【神】や【霊】が現れるという現象も同じこと。
「道」無きところに【神】は現れない。
そこに現れるのは【霊】となる。
心に巣くう欲望に呼応して【霊】が現れる。
「霊力」が開かれた途端に【霊】に狙われ懸かられる。
そして「与えてくれる」のを由として、だから【神】と崇め出す。
「道」を持っていない者は非常に扱いやすい。
「道」を与えてやればいいからである。
それは、「道」を持たぬ者が新興宗教などで「道」を与えられ、それが「生きがい」となってしまうのと同じ事である。
【霊】に「生きがい」を与えられ、有頂天になり突き進む。
【覚醒】も【神懸かり】も「御魂相当」である。
自分の【魂】に即した【覚醒】であり【神懸かり】である。
この世に自分の「道」を歩むために身体を与えられた御魂である。
だから「御魂相当」なのである。
ピアノが得意だからピアニストになり、歌が得意だから歌手になり、野球の才能が見いだせたから野球選手になるように、それは人の持って生まれた「才能」相当の道である。
【覚醒】も同じく「御魂が決めた」歩む「道」に即した【覚醒】であり、歩む「道」に即した【神】との繋がりとなる。
ただ「やりたい」「なりたい」だけで「何にでもなれる」わけではない。
それよりも「道の高みへ登る」ことが大切なのであり、登る課程で一段、二段と高みへ駆け上がるような【覚醒】へと至るわけである。
そして、【神懸かり】は「御魂の因縁」により起こる。
その因縁と「道」を照らし合わせ鑑みて、必要な時に必要に応じて【神懸かる】のである。
いくら望んだところでそれらが合致しなければ起こらない。
そこで起こるのは「望み」に感応した「霊懸かり」なのである。
身体の差違で人は出来ることが違うのと同じく、御魂の差違でも出来ることが違う。
だから自らの身体、御魂両方をしかと見極め自分の「道」を進むことが何より大切なのである。
「魂の目覚め」などと宣いながら「身慾全開」に突き進むのを見ていると、【霊懸かり】ということがすぐにわかる。
だから、下手な【覚醒】のための小細工をしたために、単なる「霊懸かり体質」になってしまった人も多い。
施術のたびに霊体に「穴」が開いているのがわかるので、「何かスピリチュアル的な施しをしたのか」と聞くと、必ずといっていいほど何かしらの事をしていたりする。
それは【覚醒】のためであるとか、【力】のためであるとか、【成長】のためであるとか・・・・
そんな漠然とした心持ちで某かを受けて、【霊】に対する感応は強くなるが、だからといってそれを自分の「何」に役立てようというのか?
ヘタに感応しやすくなっているだけに「向こうからも感応」されやすくなってしまっている。
しかし、そのための対処など何も出来ない。
出来ないから外でくっつけてきたモノを持ち帰り、家族に迷惑を掛けてしまう・・・などということが起こる。
ただ「感応しやすい」というだけで何の役にも立たないので、一応確認の上「閉じる」のであるが、ただの施術に余計なおまけがついていい迷惑である。
【力】も【成長】も「道」を進むことで得られるものである。
それを安易に一足飛びに飛び越えようというのは、賄賂を渡してプロになるようなもの。
実力が備わっていないのに、いきなりスキルを求められるところへ初心者が放り出されるようなものである。
それはつまり「何のスキルもない者を神が手足として使えるか?」ということである。
あっちにふらふらこっちにふらふらと「道」をとっかえひっかえして、「たくさんスキルを持っている」などといっても、どれもレベル1では使い物にならない。
それよりも、たった一つの道をレベル100まで上げている方が使えるというものである。
そして、そんなところへ【神】は「無言」で降りてゆき、気付かぬうちに「神業」を行っているものである。
それが「御魂相当の働き」というものであり、「御魂相当の神懸かり」なのである。
特別目立った【現象】など無くとも、道行く先で「神の岩戸」は開く。
ただ、「道」を歩まぬ者にそれはないのである。
〈ここから追記〉ーーーーー
また、【覚醒】現象が起こり「宇宙と一体」となるような現象が起こることがある。
その状態はある意味「麻薬」のような心地よさがあるため、そこから「帰ってこられない」人も多い。
この現象は【覚醒】と呼ばれるもののあくまで「初期段階」である。
だが多くの人はこの「初期段階」で躓いてしまう。
「宇宙と一体となる」ことが【覚醒】だと勘違いしてしまうからだ。
それはあくまでも「通過点」に過ぎず、そこから「魂」との「協奏」が始まり、やがて「神」との「協奏」へと発展して行くのだが、「道」がなければ「戻るべき大地」が無いのと同じで、まるで「糸の切れた凧」のようにふわふわと漂い始める。
その「漂い」こそが【覚醒の証】と勘違いしてしまい、ずっとそこに留まろうと心が働いて、「現実」へ帰って来ようとしなくなる。
ふわふわ宙に浮いて心地よさの中に居ることが【覚醒】していることだと勘違いしたままで、結局のところそれは「現実逃避の欲求を満たす」という『最高の言い訳』なのである。
「幸せ」を感じられない「現実」を『投げ出す』ために、そして自分の「逃避」を『正当化』するために【覚醒】という「現象の中に引きこもる」ものでしかないのである。
それはまるで「アルコール依存から抜け出せない中毒者」「覚醒剤をやめられない中毒者」と何ら変わることはない。
ただそれら「中毒者」のように「まだ社会的に蔑まれていない」というだけのこと・・・である。
「覚醒剤」とはよく言ったもので、その「薬物」で脳内に起きる「快楽」と似ているのである。
別に「覚醒剤」に手を出したことは無い。
両方の【覚醒】を知っている人がそう言っているのである。
それは「現実と妄想の区別がつかない」ほどになる。
非現実であればあるほど【覚醒】という「非現実中毒」と言っても過言ではないのが現代のスピリチュアルだろう。
要は「覚醒現象」に呑まれてしまって「帰ってこれない」わけである。
酒に呑まれ、薬物に呑まれるように、「スピリチュアルな現象」に呑まれたということである。
道が無い
それは「足をつけて立つ大地が無い」ということ。
帰るべき場所、帰りたい場所がある者は、酒を呑んでも呑まれることなく帰ってくる。
生きるべき道、進むべき道がある者は、その大切な「道を外す」ようなことはしない。
道を外したスピリチュアルは多くの「中毒患者」を量産しつづけている。
逃れようのない現実に押し寄せる「大津波」から逃れるように、「非現実」へと逃れ行く。
【覚醒】とは「現実を変える」ための「魂の目覚め」であり、「神と繋がる」のも「神の手」をこの三次元の現実世界に届かせるためのものである。
三次元世界を捨ててしまえば、それはもはやただの「中毒」でしか無いのである。
三次元の現実世界と五次元の現実世界の狭間にある四次元の潜像世界。
そこに漂える「蛭子」となりたいのであろうか?
0コメント