とある日の言葉
よいか
穢れとは「人の情け」から生まれるもの
それを「祓う」にどうして「情け」をかけるというのか
情けから生まれる穢れに、さらに情けをかければ更に穢れる
だから世界にここまで穢れが広がったのである
情けに情けを上塗りし続けて
もはや「情け」ではその場もしのげない手詰まりなのであるぞ
であるのに人はまだ情けを求める
その場しのぎの知恵でなんとかしようと思っても
どうしようもないことに気付いたから
神の真似事をしようとしているのである
だがそれも「情け」が基であるから同じ事
必ず失敗するのである
神の愛は「火」である
情けの水を昇華する火である
この火が発動されれば
昇華する水の曇りで何も見えなくなるぞ
何が善で何が悪かわからなくなるぞ
自分が何処へ向かえば良いのかもわからなくなるぞ
だから御魂を磨いておけと言う
どちらへ行くかは神が教えてやる
だがそれは御魂の磨けた者にしか届かぬ言霊
何故見過ごすのか?
情けを「出し尽くす」ためである
出し尽くさねば「情け」では駄目だと気付かせるため
出し尽くさねばそれは後に「悪」となって現れる
だから目一杯出し尽くさせるのである
それが大神様の「愛」である
だからヘタをすれば「泥海」に帰す綱渡りである
それをさせぬため100年も前から改心させていた
改心出来ず「情け」に呑まれてゆけば「泥海」となる
人の真ん中に「情け」がある限りそれは止められぬ
情けに情けを上塗りする知恵は更なる災厄を招くからである
戦は「情け」ゆえ起こる
善だ正義だといくら言葉を飾ろうと
情けは情けである
愛善と情善は似て非なるもの
愛悪と情悪も非なるもの
まだ愛がわからぬか?
自己欲を満たす「情」を「愛」と呼び
情けの水に浸かっている水浸しの御魂では
とうてい愛はわからぬ
情けを満たしてくれるものを「愛」としているその心
改心せねばならぬのである
自分の真ん中に「情け」を握って放さぬその心
改心せねばならぬのである
慈愛は情愛ではない
慈しむその心にある「水」は清い
情の水は濁り水
その違いわからぬか?
自分が「愛」としているものに
本当に何も「混じり気」はないか?
純粋な「愛」と言えるか?
打算はないか?
欲はないか?
恐れはないか?
怒りはないか?
悲しみはないか?
それら「情」が混じっていないと確と言えるか?
それら情の混じり気が穢れとなる
それら「情」は身魂の身慾である
その身があるかぎりけっして無くならぬ
無くならぬものだから仕方ないと言うか?
それが御魂の曇りである
御魂には身慾はない
なのに身慾に「踊らされる」
そしてそれを「致し方なし」とするその心
主従が逆立ちしておる
心を「入れ替える」は「主従を入れ替える」ことである
洗濯は選択
主従の選択である
心に情があふれておれば「洗濯」せねば色は落ちぬ
色が落ちねば「清い水」とはならぬ
だから身魂の水を御魂の真澄で洗うのである
清水と色水
慈しみと情けの違いである
だから真ん中を出せ 御魂を出せと言うのだが
身魂を握って放さぬものばかり
身魂を自分の真中から変えぬ
それではいつまでたっても岩戸は塞がったまま
岩戸が塞がっていれば助けられる者も助けられぬ
言霊が届かぬのであるから
それでは洗濯するしかなし
清水の真澄の世にするために流すしかなし
祓戸の大神によって流すしかなし
流された先は何処や・・・・
主従逆立ちした天は地獄ぞよ
地獄は情を祓う世界
三千世界の片隅で
清き水に変わるまで
握って放さぬ情を手放すまで
悲しみの底に沈み込んで
慈しみの清い水へと変わるまで
地獄の業火で清めた乙姫殿が
悲しみの底に光る慈しみを
取り戻させてくれよう
情けの濁りが取れるまで
もうじき
情の嵐が吹き荒れる
情と情がぶつかり出でる灰汁(悪)が
さらに濁りを広げてゆく
情善と情悪がぶつかり
正義という名の情が湧き出て
情が出尽くして慈しみへと変わるまで
悲しみの底に沈んでゆく
すべては天地逆さまゆえ
主従逆立ちしておるゆえ
善も正義も地獄へ向かう
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