五感の先にある『世界』を掴む 《続・華厳の道より》
現代人は昔の人より「五感」そのものが衰えている。
家の中ではテレビが鳴り響き、静けさに耐えられないかのように音楽が流れ、外に出れば雑踏の騒音、車の音、電車の音、そこから逃れるように再び耳を塞ぎお気に入りの音楽を流すか動画を流す。
四角い画面に視線は釘付けで、仕事場でも家でも電車の中でも四角い二次元の世界を見続ける。
調味料、甘味料、香辛料が舌を麻痺させ、舌が本来持つ「選別能力」を麻痺させてゆく。
冷暖房された空気の中に居ることが多すぎて、空気の「変化」を肌で感じる力も薄れてゆく。
衣服からは常に「香り」が立ちこめて、あまつさえ「匂いを消す」成分を放ってゆき、それが鼻腔にまとわりついて、環境の中の「香り」に気付かなくなる。
第六感はこれら「五感の先」に存在する。
第七感は六感の先、第八感は七感の先、第九感は八感の先・・・
だが人はその「五感」すら手放そうとしている。
そうして「四角い箱」と「ヘッドフォン」に閉ざされた二次元世界へと住処を変えた。
三次元という世界の「奥行き」さえも「二次元」的に感知する。
それほど人の五感は衰えてしまった。
その「三次元」の奥行きさえ掴めなくなってしまったのに、どうして四次元、五次元が理解出来ようか?
三次元空間よりも、より多くの「理」が存在する四次元、五次元である。
それを「二次元」の中で「より狭く」「より理を省略」した世界を四次元、五次元として人は「より狭い」世界へと潜り込んでゆく。
三次元より狭い霊界
三次元より狭い神界
そんなものを想像しゆく。
だから多くの者が想像し語る神は「二次元」的なのである。
三次元よりも都合が良く、あまつさえ二次元よりも都合が良い。
三次元から逃れるために、五感を閉ざした人々のなれの果てである。
三次元とは五感の世界である。
そして、この三次元に居ながら「五感の先」を認知するのもまた「五感」なのである。
五感が認知するから五体はそれを理解する。
五感の先にある世界を理解し得るのである。
身体の周りを覆うエーテル体を理解するのは、研ぎ澄まされた「触覚」である「肌感覚」に他ならない。
それを認知した肌感覚は、エネルギーを持った「霊体」を認知し得るようになる。
更に、空気中の香りの変化を「嗅覚」が感知する。
そして、「空間」の彩りの微細な変化を「視覚」が認知する。
それら三つの「感覚」が脳内で統合され、「霊」という存在を空間内に認知し得るようになる。
三つの感覚だけではなく多ければ多いほど良い。
それ(霊)が三次元の「理」を越えた現れ方や消え方を五感が「認知」することで、三次元より深い「理」の次元であることが理解出来る。
それが更に進んで、「霊」とされるその「エネルギー体」が発する「響き」の情報をキャッチし、自らの中にある「響き」の記憶と照らし合わされ、その「霊」が醸し出す「心」の部分を認知する。
更に、肉眼では見えないものを「目を閉じる」ことによって「響き」から発せられる 「姿」の波動を認知して脳内で映像化する。
「霊」は時に人と重なり、時に影響を与え、意思があるもの、人形のようなもの、想いの塊のようなもの、活き活きしているもの、呆然としているもの、その他様々な「状態」を認知してゆく。
それらを「認知」するには、この三次元に於いては「五感」が元である。
それら五感を差し置いて認知しようとすれば、それは「脳内」だけの現象となってゆく。
三次元から二次元、そしてさらにその先へと「降ってゆく」先の「脳内現象」なのである。
それは「現実」から遠のいて行くことであり、四次元の現実、五次元の現実から乖離してゆくばかりとなる。
現実から乖離した「霊」や「神」へと向かうのは、自らの心の中心にある「現実からの乖離」への欲求が、霊や神の存在を「非現実」へと向かわせている。
それは、自らの心では霊も神も「非現実」であると位置づけている現れでもある。
だからこそ「非現実」への「憧れ」と共に、神を「非現実」へと落としてゆく。
現実的な神は要らない。
現実的な龍など要らない。
現実的なスピリチュアルなど要らない。
「非現実」の中で「何でもあり」の世界であってほしいという「思い」が、如実にその行動に表れるわけである。
この三次元世界よりも更に奥深い四次元世界
それよりも更に複雑な五次元世界
それらをこの三次元より単調な「二次元世界」に落とし込んでいったものは何なのか?
それは人の「心」である。
目を塞ぎ、耳を塞ぎ、口を塞いだこの世界と自分との「関わり」に「救い」を求めているのだろう。
それは、ストレスから逃れるために酒に溺れ、あげくは薬に溺れ行く姿に似ている。
だから自殺が増えてゆく。
人は「逃れたい」のである。
だがそれは、元々「三次元」そのものを「認知」しないからこそ起こるものである。
三次元の立体的な奥行きの深さを、いつしか忘れてしまい、二次元的な「檻」の中に自ら囚われているにすぎない。
三次元そのものを正確に「認知」しないまま、三次元は「こうである」という思い込みの「檻」にはまり込んでしまったのである。
それを「パラダイム」という。
それは、初めに挙げた如く「五感」を失っているからである。
見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞いて、言いたいことだけを言って、触れたいものだけに触れて、味わいたいものだけを味わっていれば、五感で認知し得るこの三次元の広さ深さ彩りまでも褪せてゆくのは当然である。
簡単に言えば「好き嫌い」が激しいということである。
そんな人の心の弱さにつけ込み助長するように、様々な情報がばらまかれている。
「引き寄せ」という甘い蜜にさそわれて、「甘さ」だけ味わいたいという『好き嫌いの激しさ』が、「見たいものだけ見る」という激しさが、今起こっている「現実世界」のどうしようもない姿を「引き寄せている」とは『思おうとしない』という意固地さである。
「善いこと」を引き寄せたのは自分であり、「悪いこと」を引き寄せたのは自分では無い。
だからそれは「悪いこと」を引き寄せたその人が変われば良い。
そんな理屈で「自分は悪くない」を正当化し行く。
それを何と言うのか知っているのだろうか?
「利己主義」
だが、見ざる言わざる聞かざるを決め込んだ心には、自分を客観的に見ることなど起こりようも無い。
「利己主義」を正当化するための「きれい事」の言葉が散らばり、それを拾い集めて「利己主義」を完遂させる。
どこまで行こうと「利己」は手放さない。
まあ、ここで何を言おうとも何も変わらないのではあるが。
ただ、本気で「五感の極みの先」の世界を掴まんとする者のために書いているのである。
二次元世界に生み出した四次元、五次元ではなく、三次元の先にあるより大きくより深い世界を知ろうとするならば、まずはこの三次元世界と真剣に向き合うことである。
それらを感知したいなら、自らの心と体に真剣に向き合うことである。
安易さの中で次元の扉は開かない。
三次元の扉を開くには、三次元の極みを知ることである。
その先にある四次元世界を感知し得たなら、さらにその先の五次元へ進むため、四次元世界を「感じきる」ことである。
すべてを理解出来ずとも「感じきる」ことである。
それが出来なければ次元の「区別」は付かない。
より複雑でより奥深い次元は、三次元の理だけで見ればその違いは「曖昧」である。
だが、その「曖昧さ」の中にある「違い」を知ることが出来る。
そのようにして一歩一歩進んで「掴んで」ゆくのが「道」である。
現実の「人」すらわからず、それでは現実の「霊」もわからず、現実の「神」などとうてい理解出来ぬであろう。
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