クンダリーニ覚醒から神人和合へ




クンダリーニのエネルギーを覚醒させるのに「確かなセオリー」というものは存在しないでしょう。

本当はあるかもしれないが、今現在に於いてそれは見当たりません。



私が「クンダリーニ覚醒」に至ったのは、私自身「何をどうしたから」という明確な過程はありません。

ただ「起こったこと」のみをお話しします。



まず最初に起こった現象は、全身の「エーテル体」が波打ち、それが強い震動となっていきました。

体の周りに「本当にエーテル体」というものが存在すると「確信」したのはこの時でした。


すると次に「気功」で言うところの「小周転」という現象が発生しました。

気功ではみずからの意思で小周転を起こすと言いますが、私の場合は「勝手に」それが起こりました。

仙骨あたりから背筋を通って頭頂へ登ったエネルギーは、体の全面の正中線を通り「丹田」へと吸収されていきました。

毎秒一回転するくらいの速さで、体の前後をくるくると回るように・・・

それが数十秒ほど続くと、「丹田」にエネルギーが蓄積されている感覚がありました。


すると次に「(そのエネルギーを)下に落とせ」と、命令のような自分の意思のような曖昧なものが脳裏に浮かんだので、そのエネルギーの塊を下腹からさらに「下へ落とす」と、そのエネルギーの塊が一気に爆発して「脊柱」を駆け上り、頭頂から「突き抜ける」という感じで上部へ吹き出して行きました。



それ(クンダリーニ覚醒)が起こった数分後から、脳裏に「花びらが回っている」映像が映り、それが一向に消えません。

その光景は目の前で起こっているようであり、心臓のあたりで起こっている光景のようであり、全身で起こっていることのようであり・・・

そして、そのくるくると回る「花びら」は、回転しながら色彩を変えていきます。

赤や黄色や青や緑やマゼンダや紫やオレンジや白や・・・といった色彩に回りながら変化しています。

目を開いても、目を閉じてもその光景は消えない。

「あぁ、これがチャクラの開花というものか」と後にわかりました。

 *その現象は、その日を境に2~3週間ほど後まで続いていました。


そして更に数分後、

自分の体の全面に、明らかに「人型」の「意思」を持つエネルギー体が現れました。

自分の顎のあたりに頭があり、くるぶしあたりに足先がある。

そしてそれは明らかに「髪の長い女性」であり、しかも若い。

中高生くらいかと思える「少女」が、自分の体の全面に「半分埋まる」ようなカタチで現れました。

「何だ?これは!」

本当に「何だ?」としか言いようがありませんでした。

エーテル対の振動から始まり、ただでさえ「何が起こっている?」という状態でしたから。



そして更に三日後、

夜中に自分の体がグルグルと渦に巻かれたように回り始め、「これは地震か?!」と疑ったほど体がグラグラと揺れる現象が起こりました。

しかし周りを見ても何も揺れておらず、「あぁ、自分の体が勝手に回っている」と認識したわけです。

「何だ?これは!」

と、再び三日前と同じ言葉を頭に思い浮かべることになっった。


ちょうどその日、知人で「火とならざるものの御言を伝えられる」方がいて、その方から「龍神祝詞を唱えろ・・・って言われてるよ。」と言われていたのをその時思い出した。

「誰に?祝詞?」

またわけがわかりません。

言われた言葉の真意も訳がわからず、ましてや祝詞など知らない。

だからやむを得ずネットで祝詞を検索して、言われていた「龍神祝詞」というものを唱えてみた。


すると、唱え終わると同時に体が勝手に前屈し(させられたように)、まるで「深々と御辞儀をしている」ような格好になった。

そして・・・

その数秒後、自分の背後に巨大な「龍」が現れた。

狭い部屋の中なのに、部屋に入れるはずもない大きさの「巨大な龍」が収まっている。

その龍が発するエネルギーも強烈であったが、自分の体に三日前から居る「少女」も、負けず劣らず強烈なエネルギーであった。


その後、その「少女」が「瀬織津姫」という神様であることがわかり、

しかし「なぜ少女?」という疑問を残したまま始まったこと・・・

それは「体の共有」である。


どのように「共有」するのか?

それは「思考」に入り込んでコントロールする。

だがその思考は自分も認知しているので、自分のものと思ってしまう。

しかし、後になって「何であんなことをした?」という疑問が出てくる。

それでようやく「脳から全てを共有している」ということがわかった。


そして巨大な龍はというと、

窓を開けると見える「裏山」に居ることが多くなった。

呼べば現れる・・・という感じである。



こんなおかしな現象がすんなりと自分の中に溶け込んで行ったのは、おそらく「共有」のためであろう。

今までの私にとっては「違和感」しかなくても、半分乗っ取った「女神」にとっては当たり前のこと。

龍を呼べばやってくるのも当たり前のこと。

その「当たり前」の感覚が自分の中に溶け込んでいったのだろう。



だからセオリーというものはない。

いや、一つあるとすれば、それは「命がけで神と向き合う」ということである。

命を捧げ、人生を捧げ・・・・

捧げるということは、自分で掴んでいる手を放すということである。

それこそ「どうぞお使いください」というほどに・・・

そして「本当に手放す」までやって来ない。


実際は「お使いください」などとは言ってはいないが・・・

ただ「神というものが本当に居るのなら答えをくれ」と真剣に向き合ったのである。

命をかけ人生を捧げて・・・である。



これが私の「クンダリーニ覚醒」から「神人和合」までの一連の出来事です。





始まりからの様々な出来事や詳細につきましては、こちら↓の本に書いています



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