【八重垣】 ~トホカミヱヒタメ




霊懸かり


人は自ら生み出した「生き霊」に取り憑かれ、その「生き霊」に思考や感情を左右される。

人の思いが凝って「念」となり、それがこの世の「神の理」に触れ、その「念の霊」が生まれる。

それを「ハタレ」と呼ぶ。


この世と重なる「あの世」の浅瀬(次元の瀬戸際)にある「精霊」のようなものが息づいている。

それらに「人の念」が感応して「霊体」を持つ。

そんな「人の念」に感応して「霊体」となる「精霊」を、六つに分けて「ホツマツタヱ」では「六ハタレ」と呼ぶ。

本当はもっと居るのかも知れなが・・・・

そんな「六ハタレ」が更に融合して「大蛇」となり、やがて巨大な渦となる。

それを「八岐大蛇」と呼ぶ。


ハタレの霊と人が融合(霊懸かり)して、それが「集団」となるのが「大蛇」。

その集団が更に巨大化して、様々なカタチで大勢の人を呑み込んで、巨大な「集団霊懸かり」状態となって「世界」を歪め壊してゆく。


今、目の前に現出している状況は、かつての「八岐大蛇」さながらの状態である。




八重垣


かつてこの「八岐大蛇」という『大禍』を鎮めたのが【素戔嗚命】の【八重垣】である。

それは、集団霊懸かりとなって襲い来る「人」をただ「払いのける」だけではなく、人に取り憑いた「六ハタレ」の霊も鎮める。

霊を鎮め、人を鎮め、再び起こらないように道を整える。

「この世」と「あの世」の「共鳴」で起こった災いは、当然「この世」と「あの世」の両方を鎮めなければならない。

人の暴威を防ぎ、霊を浄化する。

それが【八重垣】である。


人の「知恵」が「感情」の波に呑まれて、その強い「感情」が「思考」を支配する。

その同じ思いと思考が繰り返されることで「念」となって「凝る」わけである。

そして、「凝った念」に引き寄せられるように「ハタレ」となる「精霊」が結びつき、強い感情の「念」を具現する「生き霊」となって、その「人」と一体となる「霊懸かり」となるわけである。

「生き霊」となったものは、その一人の人間のみならず、同じ「思い」の人に吸い寄せられ、その「生き霊」に寄られた人もまた「念」が凝って「生き霊」を生み出す。

その連鎖が「集団霊懸かり」を生み、ひとつの「大蛇」となってゆく。

長蛇の列を組む「デモ」を見ればわかる通りである。


「暴動を鎮圧」するだけでは、さらに「生き霊」は凝縮する。

だから「祓い」をするのである。



かつて「天の益す人」の過ちから始まった「八岐大蛇」の大禍は一度は鎮められたが、それは完全なものではなく、その歪みが長い年月を掛けて大きな歪みとなり、再び「大禍」を生み出した。

「鎮圧」すればするほど「念」は凝り、そして強烈に凝った念の生き霊が「悪霊」となって再び「八岐大蛇」の大禍を引き起こしている。

「鎮める」ことのない「鎮圧」が更なる「軋轢」を生み、より強力な「悪霊」へと昇華させてゆく。

恨み、つらみ、妬み、嫉み、怒り、憎悪、絶望、虚無

何度も粘土を捏ねるようにして「八岐大蛇」を作り出したのである。

その大蛇が大口を開けて神の国を呑み込もうとしている。



だから【八重垣】が必要なのである。

暴威の「元」を見極める【事代主神】

元と成る「生き霊」を祓う術

人の暴威をを止め、霊の暴走を止める【八重垣】

それが出来るのが「草薙剣」である。

「剣」とは「誠」

「誠」とは「柱」

「柱」とは「愛」

「愛」とは「信」

「信」とは「言」

「言」とは「神」

「知恵」ではない「天の道」


「非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たず」・・・楠木正成


だが今の世は

「天は権に勝たず、権は法に勝たず、法は理に勝たず、理は非に勝たず」

天よりも権力者の意向が最優先、その権力者も法の下で裁かれる。

だが法そのものが理屈され、罪有るものの罪を無くし、罪無きものに罪を着せる。

それは「非道」なるがゆえである。


天道、非道 天地逆さまの世界。



自分は誠に「天道」に従っているのか?

それとも「非道」に従っているのか?

非道になど従っていないと言うだろう。

だが実際は天道よりも目の前の「権力者」であろう。

目の前の「身近な権力」には逆らえないであろう。

たとえ「天道」に背いたとしても・・・・

それがすでに「逆立ち」しているということである。


「逆立ち」している時点ですでに「大蛇」の一部である。

「そんなつもりはない」と言い訳しても「事実」は変わらない。


自分が「逆立ち」していたことに気付いたとして、はたして本当に「逆立ち」をやめられるのか?

自分が「土台」としている「足場」は、その「逆立ち」が大前提なのではないのか?

「土台」がそうなのだから「仕方ない」

という言い訳をするだろう。

私は大蛇の「頭」ではなく「尻尾」だから、私の意思ではない・・・と。


だが大蛇は大蛇、退治せねばならぬ。

尻尾も立派な大蛇の一部である。




改心


「改心」とは「言い訳」することではない。

「非道」を「天」に仰ぐ「逆立ち」をやめ「天道」に生きることである。

善人ほど「自分は悪くない」という思いを頑なに握っている。

だから「善人ほど改心出来ぬ」のはそのためである。

非道の先頭に居ようが最後尾に居ようが非道は非道である。

改心出来ねば【八重垣】の内側には入れない。

そして【八重垣】の外は「穢土」である。




癒奏術・響庵ブログ

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