蜘蛛の糸 《妙吉祥の御言》
人は誰でも神懸かれる
思い一つですぐに神と一体となれる
なのに、そうなれていないのは何故か?
心に愛を溢れさせ、慈愛をもって人と対する。
与えることに喜びを見いだし、人の喜ぶ姿に力を得る。
その神のままに振る舞えば良いだけ。
そこに自ずと神は現れる。
なのに、現れないのは何故か?
おのれ自身が神を拒絶しているからである。
おのれ自身が神の岩戸を塞いでいるからである。
神と一つになることで「失う」と思っているものを手放せぬからである。
握って放せぬ凝った思いが霊となり、すでに霊懸かりとなっているからである。
神が現れれば霊は居場所を無くす。
ゆえに岩戸を塞ぎ続ける。
神が現れれば執着を手放さなければならなくなる。
ゆえに岩戸を塞ぎ続ける。
手放せぬのは、それを『柱』としているからである。
神を拒絶する『霊』を自分の『柱』としているからである。
それら握って放さぬものを握ったまま、都合良く神に現れてくれと願っている。
執着を、執着が生み出した『霊』を真ん中に据え、その脇に『神』を頂こうという傲慢さ。
それでどうして神が現れるというのか?
あくまでも『天道』には従わず、『天道』を曲げて禍霊の脇に神を据え置きたいというその心で、神に向かっていると言えるのか?
都合良く神を祀り、都合良く神を迎えたい。
手放せぬ欲望を握りしめ、岩戸を塞いでいるのは自分自身である。
自分の都合を神に押しつけ、神の都合は聞かぬ。
自分の都合に合わせてくれと、心の中でふんぞり返る禍霊と一体となっている身に現れる神とは一体どんなチンケな神であるのか?
神はただただ『天の道』である。
天の道に沿って人を歩ませたいだけである。
されど人は『天の道』を拒絶し、地に天を従わせようとしている。
自分の都合に神を従わせようとしている。
だが人は「そんなことしていない」と言う。
本当にしていないのならばとっくに神は現れ、神懸かり、慈愛をもって生きている。
だがそうなってはいない。
それが答えである。
自分は本当に「愛」をもって人と接しているか?
「愛がわからない」
だから出来ない。
そんな言い訳ばかりして、やらない自分を貫く。
神の岩戸は開いているのに、人の岩戸は開かぬまま。
その岩戸を閉めているのは、他ならぬ自分自身である。
岩戸を開くのは『天鈿女命』
人を楽しませ、喜ばせ、幸せにする神である。
それを自分がすれば良いだけである。
なぜそれが出来ぬ?
「自分が楽しく喜んで幸せになってから・・・」
そうやって『天鈿女命』を求める。
自分がそうなるのではなく、私のために『天鈿女命』となってくれと「神」を求める。
「先に私を楽しませ、喜ばせて幸せにしてくれ。そうすれば自分もする。」と願う。
それが岩戸が開かぬ者が求めている「神」である。
「神」は自分を喜ばせるための「道化」。
そんな「神」を求めている。
だから岩戸が開かぬ。
本当に神を求めるなら、「天鈿女命」と成れ。
自ら道化て人を楽しませ喜ばせればいい。
それが出来ねば神は岩戸を開いて出てくることはない。
わざわざ道化るために岩戸を開く神など居らぬのである。
神を道化にする傲慢さは、天狗懸かり、狐懸かりも甚だしい限りである。
自ら禍霊を生み出して、禍霊と一体となった者たち。
道化てくれる神を求めて、気付けば奈落に墜ちている。
墜ちているのも気付かずに、逆立ちしたまま神を拝む。
「どうか道化てくださいませ」と、逆立ちしたまま神を拝む。
「わたしの禍霊をそっとしておいて、その脇にお越しくださいませ」と、逆立ちしたまま神を拝む。
そんな霊懸かりばかりの世界である。
弥勒の世界は菩薩の世界
霊懸かりのまま行けるわけはなし
仏が垂らした蜘蛛の糸
仏心を途切れさせ
餓鬼畜生の心に戻れば
糸は瞬時にプツリと切れて
亡者の世界に戻るだけ
自ら神心仏心を起こすだけ
起こしたその心で行動するだけ
ただそれだけが出来ぬから
岩戸が開かぬのである
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