蜘蛛の糸 《金剛手の御言》
もはや あまり時間がないのではっきり言う。
甘言の愛は今すぐ捨てよ。
おおよそのスピリチュアルで語られる言葉たちの殆どはゴミ同然の代物である。
その証拠に、未だ「愛」が掴めておらぬではないか。
「愛」とは何だ?
と考えるばかり。
追いかけるばかり。
なぜやらぬ?
自分が「愛」だと思える全てをなぜやらぬ?
やらねば掴めるわけはない。
「愛」を行うことでようやく「愛」を知るのである。
行動もせず言葉ばかり並べ立てても「誰も救われぬ」。
行動せねば誰も救われぬ。
誰も救われぬところに愛はない。
愛と思えるもの
慈しみと思えるもの
優しさと思えるもの
すべてやれ。
自分の日々の行いを、愛に、慈しみに、優しさに寄せてゆけ。
愛は言葉では無い。
その行いの中にある光である。
未だ「愛」が見つからぬのは「行い」が無いからである。
先に答えを寄越せと言わんばかりに、愛を求め彷徨いあるのはただの「飢え」「渇き」。
その「飢え」「渇き」は「愛ある行い」が無いからである。
他人にばかり「愛」を求め、自ら「愛」を行わぬ。
だから世界に「愛」が無い。
「愛」は自らの行いの中にしか見つからぬ。
自らの行いの中に愛を見つけた者にしか、他者の愛はわからぬ。
「愛」が見つからぬのは、未だおのれの中に見つけられぬゆえである。
だから行え。
自分が「愛」だと思えるものを、他者に分け与えるという「行い」をせよ。
愛は学ぶものでは無い。
行いの中にあるのを「知る」のである。
世界が光溢れるのか
闇に墜ちるのか
それはすべて人次第である。
人の「行い」次第である。
時間は無い。
もはや選択の時はとうに過ぎている。
それでも「蜘蛛の糸」を掴みたいなら・・・
行い続けよ。
行い続けている限り、「蜘蛛の糸」は天へと登る。
行いをやめたとき、「蜘蛛の糸」は途切れるであろう。
余計なゴミを捨て去って、身軽になって「糸」を掴め。
もう、時間は残されていないのである。
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