千曳(地引き)の岩戸




何事も『一流』となるためには磨かなければならない。

料理人は料理の技術とセンスを磨き、絵描きは絵の技術とセンスを磨き、野球選手は野球の技術とセンスを磨き・・・・

すべての「一流」と呼ばれるものは技術とセンスを磨いた「努力」の賜である。


スピリチュアルの世界では、さして磨かぬ者達が何故か「一流」になれると勘違いしている。

非現実の世界だからそんな非現実が許されると思っている。

だが実際は非現実の世界などではなく「現実」そのものなのである。

だから「磨いた者と磨いていない者」の差は歴然としている。


今までは誤魔化せた世界も、もはや誤魔化しは効かない世界となり始めている。

しっかりと「磨いて」きた者と、誤魔化してきた者との差がこれからどんどん露わになってくる。


「神と繋がる」ということは、その道の「一流」である。

そこへ到達するには技術を磨き、センスを磨かなければ当然到達出来ない。



だが、それが誤魔化せてきた世界が突然崩れ始めている。

世界の「幻想」が崩れ始めたのである。

その幻想が崩れ去った時、実体が露わになる。

そして真実に慄く。



神と繋がるということは、魂を「磨く」という研鑽を怠らなかったから為し得る。

その「目に見えない」努力があって初めて為し得ることである。

自分の内なるものと戦い、魂を磨き続けてようやく到達出来る。

磨いて磨いて磨いて・・・・


自分とは何なのか?

人とは何なのか?

霊とは何なのか?

神とは何なのか?


疑問を解くだけでは魂は磨かれない。

自分の内なる悪と対峙し、その悪が何であるのかを見極め、その悪を排除するのではなく「抱き参らせる」ことが出来て初めて心は澄み渡る。

そして、心が澄み渡ってはじめて自分の「魂」というものを見いだすことができる。

澄み渡った心で魂を磨き、魂が輝きを取り戻して初めて「神」がわかる。



魂は「個」である。

一個の「意思」である。

その一個の意思が形づくる姿が「霊」であり、人という身体と結び「霊体」という人の姿の霊となる。

その魂の純粋な意思が形づくった「霊」が誠の自分という「霊」。


だが人は心に思いを凝らせる。

その「思いの凝り」が霊を具現させ霊体を生み出してしまう。

そして、生み出した「生き霊」と一つの身体に棲んでいるような状態なのである。

思いの凝りが二つあるなら二つの生き霊。

三つあるなら三つの生き霊。

そんなものを纏わり付かせながら人は生きている。



だが、別の「魂」も同時に纏わり付いている。

かつては自分であった魂でもある。

更に、先祖霊や守護神と呼ばれる霊も身近に居る。

その世界には他にも様々な霊が徘徊している。



そんな中から『神の言葉』を聞き出すには、技術を磨き、センスを磨き、心を磨き、魂を磨かなければ到底わからない。

そして、わからないものをわからないまま何でも「神」にしてしまう。

「誰もわからないだろう」

ということで騙し通す。

自分の中の「悪」に負けたのである。



磨いた者と磨いていない者

その差は歴然なのである。



幻想の世界が崩れ去り、今までわからなかった真実が露わになる。

真実の世界、それは「誠」の世界。

だが、その素晴らしさを享受出来るのは、自分を偽らずに「磨いた」ものだけである。

多くの者にとってそれは「地獄」に等しい。

地獄の入り口で閻魔大王の前で「浄玻璃の鏡」を見せられる状態となる。

それが「誠」の世界。

「次元上昇」した世界である。


「次元上昇」という「わからない」言葉で、勘違いさせられあらぬ方向へ向かった者も多いだろう。

次元が上がるとはそういうことである。

上の次元の「理(ことわり)」がなだれ込んでくるのである。

それは心像世界の理。

心がそのまま「現れる」世界である。


世界が「誠」となった時、自分の「真実の姿」がさらけ出される。


あと数ヶ月もすれば幕開けする「誠の世界」

それは「地の岩戸」が開けた世界

今は「幻想世界」の最後のときである。



地の岩戸が開いた時、人の岩戸は開いているか?

自分の岩戸は開いているか?





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