三つ巴の渦
人の目に触れること無く、歴史に刻まれることも無い。
その「知られざる歴史」は「神話」の中に溶け込んでゆく。
潜像界(霊界)で起こった事実は現実界にも写り、現実界で起こった事実は潜像界(霊界)にも顕れている。
盤古神から生まれた「龍王」は、八頭八尾の大蛇の姿。
元々、大地を司る「山津見八龍」の「要」が「龍王・素戔嗚大神」である。
国之常立神を廃する時に、素戔嗚大神も廃され、そこに変わって「八頭八尾の大蛇」が入り、大地の主人が変わった。
「八頭八尾の大蛇」は神話では「素戔嗚命」と習合されて、稚姫の「誠」をねじ曲げたは「素戔嗚命」とされ、さらに地上の統治神から「素戔嗚命」を廃し、「黄泉」へと追いやった。
そして「サタン」と名付けられ、悪神として歴史(神話)に刻んでいった。
「八頭八尾の大蛇」とは地上に於いては「盤古神」の「益人」。
これに「邪霊」が取り憑いて、世界に穢れが派生した。
「大蛇」が支配する世界の中で、シヴァ神の化身「大自在天」も現れて、世界の統治を補いていたが、そこに邪気が凝り「金毛九尾の狐」が現れて、「天の益人ら」に憑依し「穢れ」を世界にばらまいた。
そこからさらに「邪鬼」が生まれ出で、「神」となって更に憑依し世界を乗っ取る。
「八頭八尾の大蛇」が「神」
「金毛九尾の狐」が「主の神」
「邪鬼」が「主」
「主」という「神」となった「邪鬼」は今や世界を二分する力を持った。
「素戔嗚命」を「サタン」としたは「主」となった「邪鬼」である。
「国之常立神」を大地とし、「天照大御神」を柱とするのはもはや「日の本」一国となる。
そこに「八頭八尾の大蛇」が現れ最初の「岩戸閉め」となった。
さらに「邪鬼」がやってきて、更なる「岩戸閉め」となった。
天照が「別物」に変わり、仏魔が入り、さらにユダヤの邪鬼が入り・・・・・
もはや「誠の神」がわからない。
天照は天照でなく、素戔嗚は素戔嗚でなく、盤古は盤古でなく、ヤハウェはヤハウェでなく、シヴァはシヴァでなく・・・・
「同じ名の神」が『二神居る』
本物を隠して偽物を拝む。
おおよそ祀られているのは、金毛九尾の狐か邪鬼である。
「大蛇」と「狐」と「邪鬼」の三つ巴の世界となりし。
「客家」「サクソン」「ユダヤ」となって世界は三つ巴で争いて、今や「客家」と「ユダヤ」の対立。
そこへ最後に現れる「八岐大蛇」
北から機会を静かに窺う。
かつて向津姫が「岩戸」に打ち込んだ「楔」をこじ開け、国之常立神が大地に降り立つ。
黄泉に隠れた素戔嗚大神が黄泉比良坂の岩戸をこじ開ける。
向津姫の「天道」を再び「柱」と据えるため、岩戸の後ろで魂に光を照らし始める。
自分が神としていたものが「大蛇」か「狐」か「邪鬼」ならば、はや改心されることである。
自分が光としていたものが「天道」から外れたものならば、はや改心されることである。
自分が力としていたものが「誠」から外れたものならば、はや改心されることである。
憑依されたままの御魂では渦に巻かれて墜ちてゆくだけ。
「三つ巴」の渦に巻かれて、混沌の渦に呑まれ行く。
改心するは「光を受け入れる」ことである。
逃げ続けた「光」に向き合い、受け入れることが「岩戸」を開く。
「大蛇」のささやき、「狐」の戯れ、「邪鬼」の誘いをねじ伏せて、光を受け入れることである。
イエもそれら「悪魔」と対峙し、自らの心から悪魔を「退治」して「光」を受け入れたのである。
仏陀も「悲哀」と対峙して、自分の心から餓鬼畜生に修羅を「退治」して、光の中へ入っていったのである。
心に巣くう「邪霊」を退治し、心を澄み切らせるが御魂磨き。
岩戸が開き光に溶け込み一体となった「御統(澄まる)の玉(魂・霊)」
神人一致する心が神の手足となる器
三種の神器はその証
大蛇を退治し剣を手に入れ、歪み無く神の「天道」を映す鏡へと御魂を磨く。
イエスも行い仏陀も通った道である。
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