日本人の型 ~他楽(働く)日本人
縄文以前の大昔から連綿と紡がれてきた「日本人の型」は、その長い歴史と文化の蓄積であると同時に、長い年月をかけて「磨かれ」続けてきたものである。
そんな「日本人の型」には様々な奥深い彩りがあり、繊細な色彩や姿が刻まれている。
それは、言葉や挙動のみならず、思考の根本に至るまで洗練されたものであり、その「型」という「在り方」があるからこそ、国土は潤い日々は穏やかなのである。
多くの人の日常の「一挙手一投足」にまで染みこんだ「在り方」は、世界中どこへ行っても類の無い「高度」で「洗練」されたものなのである。
かつての昔に訪れた外国人達は、市井の一般人にまで当たり前のように染みこんだ「教養」に驚き、自国との差を痛感していたほどである。
それは、片田舎の村に行っても同じく、「民度」というものの高さが当たり前のように備わっていた。
翻って今現在を見渡してみると、明瞭なほどにかつての「日本人の型」が失われているのがわかる。
洗練された繊細な色彩や模様は、時間の経過と共に「画一化」されてゆき、「合理性」を求められ続けた結果、より「機械」に近づけられていった。
より高度な「機械」に近づくほどに「賞賛」が与えられ、今では「賞賛」される者の思考は「AI」に近づくほどに栄誉を与えられる。
「情報」は「処理」するものと定義付けることで「処理能力」を引き出すほどに賞賛される。
しかしそれは「人間」という「型」を捨て、「日本人」という「型」を捨てることで得る能力であることに気付かず、言語のみならず音も味覚も触覚も情緒も全ては「処理」すべき「情報」と成した結果である。
つまりは、様々なものを「捨てる」ことで勝ち取る「賞賛」なのである。
今、日本人は「捨てた者」と「捨てない者」が交叉する時を迎えている。
教育のなかで「捨てる」ことを選択させてゆき、「捨てた」ものが賞賛を得るというシステムが構築されているからである。
だが、現在においても「捨てられない」者達が大勢いるから「日本」という平和で安全で民度の高い国で在り続けているわけであるが、その「民度」という大多数の人間の「ただ働き」によって成り立っている「日本」という国に、「民度」を捨てた者たちが「あぐら」をかいているという現状である。
「民度」というものは大勢の人が「他楽(働く)」ということを「当たり前」のようにしているからこそ成立するものなのである。
その「他楽(働く)」という「在り方」そのものが「日本人の型」である。
だが、そんな「日本人の型」を「捨てる」ことによって「成功を得る」という幻想を抱かせ、「日本人の型」を壊してきた。
それは、歴史の中で何度も「日本侵略」を試みて適わなかったものたちが、日本人の「強さの秘密」を見つけたからである。
かつてヨーロッパはモンゴル軍に恐怖した。
攻められれば降るしかなかった。
だが日本はモンゴル軍を撃退し、その後の歴史においても侵略を赦さなかった。
そんな日本に最初の穴が開いたのが「維新」である。
次に第二次大戦後に穴は広げられた。
そうして今、日本人は再び「選択」を迫られている。
かつて平安時代の大学頭・大江匡房は「孫子」の兵法書が日本に渡ってきた時、その論理的で隙の無い兵書を賞賛するとともに「これは日本人にはそぐわない。やみくもに乱を招くだけである。」と言って人目に触れないようにした。
この大江匡房の言葉に尽きる。
「孫子」は「戦いに勝つため」の書であり「国家統治」の書では無い。
言い方を変えるなら「外敵の多い国の書」であって「外敵の無い国の書」としては「そぐわない」ということである。
むやみやたらに渡して良いものでは無い。
君子に渡れば害は無くとも、狂人に渡れば災いにしかならなくなる。
いや、たとえ君子であっても心に「欲」があれば火がつきかねない代物である。
だから「禁書」として蔵に眠らせた。
だが、今や「孫子」は世界中に出回っている。
「孫子」のようなものが出ることで「思想」が変化し、得るものと比例して「失われる」ものも多いことを大江匡房は見抜いていた。
「孫子」の思想の根底に流れる「勝つ」という「媚薬」が、人の欲望を刺激して、より多くのものを得るために、よい多くのものを失わせる。
そこでの「人」は「機械」のように「合理性」を持たされ、「人」であるという「多くのもの」を失わせて行く。
大江匡房は「得る」ものよりも「失う」ものの価値のほうが「重要」と見抜いていたのである。
しかし、結局は「孫子」は世に出てしまい、日本は「戦国の世」へと変わってゆくこととなったのであるが・・・・
「民主主義」「資本主義」という幻想の「競争」世界で、人は多くのものを失いつつある。
日本人は「日本人」であることを失い続けることで「勝つ」ということをわからぬまま突き進んでいる。
そして「日本人」であることを捨て得ないがために「負け」続けるという現象が続いている。
「民度」を捨てればその分空いたスペースで「思考」を強化する。
それゆえ「思考強化」し続けたものは「民度」の部分で「欠落」しているものがある。
それは、日常の一挙手一投足に表れ、言葉や態度に常々表れている。
日本の平和と安全を支えているのは「民度」を守ろうとしている多くの人々の「他楽(働く)」という「ただ働き」である。
そんな「ただ働き」を「バカバカしい」として捨てた者達が、「ただ働き」の上であぐらをかいているのが今の日本である。
だが、日本人の本当の「強さ」は「日本人の型」の中にある。
「他楽」という「民度」が「共生」を生み、結果「簡単に崩れない」国となっている。
戦いでは「先に散けた方が負け」なのである。
だが日本人は簡単には散けない。
それは戦争で戦った国々が最もよく理解していることである。
だからこそ、この「民度」という「日本人の型」を壊しにかかっているのである。
コロナの騒動が始まった時も日本人は世界とは違った行動を取っていた。
それを見て「まだ足らぬ」と思ったであろう。
だから日本だけ未だに「補習」をさせられるように「マスク」を付け「ワクチン」を接種させているわけである。
日本が世界から「遅れている」というのは「一律」にしたい者達の思考であり、そのように思うと言うことは自分の思考が「そちら」に寄っているということである。
日本は世界から遅れているのではない。
「違っている」だけである。
それは「日本人」だからである。
だからそれはむしろ「誇るべき」ことである。
本当に危険なら日本人は命令などされずとも一致団結する。
だが、そんな日本人が「疎ましい」のであり、同時に「恐ろしい」のである。
だから壊す。
『他人のために「他楽(働く)」など愚かなこと。そんなものは早く「捨てて」自分のために専念せよ。』
そうして「他楽」を捨てて「自分」に専念して勝ちを得ることを賞賛する。
飴と鞭を使って徹底的に・・・
そうして勝ち上がった「他楽かない(働かない)」ものが「お上」となる国が出来上がった。
「他楽かない(働かない)」ほうが上に行ける。
天地逆さまとなりけり・・・・・
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