弥勒の世へ進む世界で




目覚めは、自らの心と意の二つのこころを磨き、観と見の二つの見方を磨き、身と霊(たま)の二つの体を磨いて初めて得られる境地である。


しかし、多くの人は「目覚め」を「頂く」もののように「受動的」な態度を手放さない。
行動しているように見えるのは、ただ「頂ける」場所を求めて彷徨っているばかりである。
『何処に行けば目覚められるのだろうか?』
そんな目覚めを「与えて」くれるものを求めて彷徨う。

その「迷い」が曇りであることにも気付かず、目覚めようとする魂の意を、心の曇りが塞いで、いつまでも迷いから抜け出せない。

心では何度も抜け出しているはずなのだが、再び迷いへと回帰する。
それは心の曇りそのものがなんであるか解らぬまま、闇雲に心が求める方へと進むからである。



言葉ばかりが「頼り」となり、言葉以外の【言】を見分けられない。

平安の頃では当然のようにあったその力ゆえに「白粉」を塗りたくった顔を常時していたわけであるが、そんな力も今では見る影も無く「言葉」ばかりに左右される。

縄文の頃なら誰にでもあった力であろう。


それが見えないのは心が曇り、眼が曇っているからに他ならない。

だから迷う。

見えずに迷っているから

「鬼さんこちら、手の鳴る方へ」

その言葉に誘われてゆく。


「手の鳴る方」へ行けば「与えてくれるもの」と思い向かって行く。

しかし、「与えられるもの」ではないものを「与えられる」わけはない。

だからまた

「鬼さんこちら、手の鳴る方へ」

と、声のする方へ向かう。

そんな堂々巡りを繰り返すばかりである。



心と意、見と観

それが磨かれれば曇りは晴れる。

優しい言葉を発しているものが「鬼」であることも簡単に見て取れる。

いくら言葉で取り繕っても、言葉で武装し化粧しても、その姿は真逆であることなど見て取れるのである。

それは特別な力では無く、かつて日本人が持っていたもの。

だから嘘の無い「誠の世」であり得たわけである。




人の姿すらちゃんと捉えられぬのに、更にわかりにくい世界の実相がどうして捉えられるのか?

そんな簡単なことさえわからぬように「曇っている」のである。

その曇りのひどさは日月神示の言葉を借りるまでも無い。



人ははや気付くことだ。

言葉でいくら取り繕おうとも、その姿は見るものが見れば明らかなのである。

「裸の王様」そのものなのである。



せっかく天王星が「観」を磨き曇りを晴らす手伝いをしてくれているのに、そのせっかくの恩恵をフイにして「目隠し鬼」で戯れているばかり。

「縄文、縄文」と言いながら、その「縄文の人の型」がさっぱり見えていない。


地球が次元上昇しているため、さらにそれは如実に現れている。

いくら心に隠していても、外に漏れ出ていることにも気付かない。

心と意の在り方が、そのまま「姿」という「型」に出ているのである。

さらに言えば「姿を見ずとも」わかるものにはわかるだろう。

それが「次元上昇」であり「誠の世界」であり「弥勒の世界」である。


『心の在り方がそのまま【型】として現れる世界』

地球はそんな世界に向かっているのである。

それゆえ「誠の光」に人々は焼かれるのである。




五輪書 水の巻

目の付け方は、大きく広く付ける目である。 

「観・見」二つの目があり 「観の目」を強く、 「見の目」を弱く、遠い所を近いように見 近い所を遠いように見ることが兵法では必要不可欠である。 

敵の太刀の位置を知っているが 少しも敵の太刀を見ないことが 兵法では大事である。


癒奏術・響庵ブログ

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