偏差値教育とAIとSNSと・・・
昨今、頭が良いと言われる人たちの語りを見ていると、「一人SNS」や「一人掲示板」を繰り広げているごとくに見える。
一つの「答え」という自分が思う方向へ、常に「自分の立ち位置」を変えながら、理屈を突き詰めてそちらへ導いているのがよくわかる。
「一般論」というその実非常に曖昧で抽象的な例を挙げながら、一つの「着地点」へと誘導して行くやり方は、強いて言うなら「AI将棋」のようなものである。
最後に「王手」で詰めればいいという、単なる「勝つこと」だけを目的にしたAIのように、『自らの志や思想的な自分の柱』を一切表明することなく、ただただ「勝つ」ことに意義を見いだす。
だから彼らは「SNS」が大好きである。
そこに転がる「ネタ」を弄ぶことが、子供がおもちゃで遊ぶことと等しい。
常に興味を引く「おもちゃ」を探し、おもちゃを見つけたらそれで遊ぶ。
自ら「楽しみ」を創意工夫するのではなく、常に某かの「おもちゃ」という「興味対象」が必要なのである。
そんな彼らに欠けたもの・・・
それが『柱』である。
議論というものは「柱」と「柱」を見せ合い、そこから新たな「柱」を見つけ出すという「建設的」なものである。
しかし、昨今の議論は意見の「押し付け合い」「通し合い」で、最終的にどちらが「言いくるめたか」という単なる暴力競技となっていて、もはやそこには「建設的要素」はなく、ただただ衝動にまかせた「破壊」があるばかりである。
「勝つ」ことに囚われているその姿は、自らの存在理由が破壊されるのを防ぐために、それを脅かすものを破壊するという行為は、どんなに高尚な言葉を使っていても「幼稚」に見えるものである。
それはきっと、彼らの心がまだ「学校」に居るからであろう。
競争という世界の中で、自分が目指す目的地にたどり着くための「道のり」というものがあって、そこをどのように「教育」するかで『全く違った人間』へと成長する。
「勝つ」ことを教えると共に、「いかにして勝つ」のか、「なにゆえに勝つ」のか、という「道程」が示されないまま、ただ「勝ちを取れ」と「目的地」だけが示されただけの空虚な「偏差値教育」は、結局の所「人の道」という「道程」を破壊してしまった。
偏差値教育での「勝者」は、「勝てば良い」ということしか教えられなかった世界に対応したがために、「人の道」を踏み外さずに・・・というその言葉が無かったがために、「人の道」を知らぬまま突き進み「勝者」となってしまった。
そして、教えられなかった「人の道」を「法」に重ね合わせ、「法」という「道筋」を外さぬ・・・というものを「人道」としているのだが、所詮「法の道」と「人の道」は別物である。
法に従えど悪はいくらでも出来るし、法を犯すことで人の道を立てることもある。
世のシステム的には「法の遵守」が「正義」であるが、人の道に於いては「正義」では無くなる。
そこを見れば彼らの「柱」としているものが何であるかが見えてくる。
要は「システム」なのである。
「システム」を「遵守」し続け、けっしてそこから外れることが無いからこそ「成功体験」が得られたのであるから、「システム」は絶対者のように「柱」となって心に居座っている。
そして自らも「システムの一部」とすることこそ「道」なのである。
それはけっして間違っているというわけではない。
ただ、システムが暴走すれば一緒に暴走する。
ということである。
「システム」そのものがおかしくとも、その「システム」に従う。
「おかしさ」の判断は「過去に捨ててきた」
それも「成功体験」である。
SNSの流行は「その類いの人」が多いことの証明である。
彼らは常に「おもちゃ」を求めてSNSを掲示板を徘徊する。
そんな彼らが何を言おうが、システムが変われば自ずと従う。
『このおもちゃの遊びの時間は終わり』
と言って次の新しい「おもちゃ」を探すまでである。
偏差値教育の中で徹底的に仕込まれた「風見鶏」であるという事実は、成功体験に裏付けられた「事実」として、何よりも「捨てられない」自分のアイデンティティを支えるものとなっっている。
けっして「システム」という「体制」には逆らわない従順な「AI」であること・・・
そこから逃れられないのである。
それは、そのようにしてきた者達の大いなる「勝利」なのだろう。
何を「卒業」した?
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