光の大悪党




悪になる「分岐点」というのは、純粋な心の衝動でしかない。

だが、それが「多数派」ではなく「体制派」でも無かった時、「多数」ではない、「体制」に逆らうものとして扱われ、排除されようとする。

その「排除」されようとする現実に抗うと「悪」となってゆくわけである。

だれも悪いことをしたくて「悪」へと進むのでは無い。

「少数」で「体制」にそぐわないから「悪」へと「押しやられて」ゆくだけである。


頭では「従う」ほうがいいのだろうとわかっていても、心がそれを赦さない。

自分を「曲げる」ことを赦さない自分がいるから、現実と心の狭間で苦しみもがく。

利口に振る舞うことさえ自分を「曲げる」ことになるから、どうしても曲げられない。

多数も体制もそれを「理解」する懐の深さは無く、従うものと従わないものを「善」と「悪」で分け隔て、それでも曲げて従わないなら「悪」と成り行くしか無い。


大悪党と呼ばれた「楠木正成公」を見ればわかるとおりである。

清廉潔白な仁と義を持っていようとも「体制」から外れれば「悪」なのである。


「悪の改心が早い」のは、そもそも自分の曲げられぬ「柱」を知っているからである。

その上で「悪事」をやめれば良いだけ。

「悪事」というものが何であるのかも「知っている」から改心するのも早い。

なまじ「体制」に従い続けただけの「善人」は、「悪」の本質が何であるかわからず、「悪事」が何であるかも理解していない。

だから自身が「悪事」をしていようなどとはこれっぽっちも思わないから「改心」することが難しくなる。


そもそも「善悪」の基準がおかしかったのであるが、そのおかしさを受け入れて来たために自分が「善人」の側にいるものと思い込んで、「善悪」というものを考えてこなかった。

「善」とされているものが何なのか?

「悪」とされているものが何なのか?

ただ「悪」とされることを「避けて」来ただけで考えては来なかっただろう。

とりあえず「悪」とされることを避けていれば「安泰」であるということだ。


だから今更「善悪」を考えても、今まで定義されてきた「善悪」の枠組みの中で思考する。

「悪」とされることを「避けて」きた自分の「体験」の中だけで思考する。


2020年からコロナの騒動が始まって、自分が体制に従わなかったのだとしたら、それは学生時代の不良達が心に抱えていたものと何ら変わるものではない。

「曲げられない」から「ワクチンを打て」という「体制」に従わなかったのであろう?

ならばその時点で立派な「不良」であり「悪党」である。


そして更なる「強制」が行われるであろう。

そこに従って「善」とされる方へと行くか?

それとも反抗し続けるか?

「不良」と呼ばれる如く「陰謀論者」と呼ばれる道を進むか?

それとも再び自分を「曲げる」か?



自分を曲げずに行く道がどれほど厳しい道であるか・・・

「悪」と罵られ続ける道を行くことがどれほどのことか思い知るだろう。

それでも拗ねて「悪事」を為さず、心に光をたたえて「道」を行くことが出来るか?

人に「光」を施すことが出来るか?

「曲げない」柱が「光」であることを証し続けられるか?

それには自分が「光」であるとしたものを「自分自身」に証明しなければ、いずれ屈して曲げることとなるだろう。



世界は今「過去」の手放しに入っている。

「体制」という「システム」の手放しに入っている。

多くの人が「悪」としてきたものの中に「光」がある。

それを曲げることなく立て続けるものがいる。

その「光」を見つけられるか?

それとも自身が「光」を放つか?


今まで築き上げられてきた秩序が「零」へと回帰する。

その始まりとしての「令和」

令を零に

令を和に

「令」という法でありシステムであり秩序であったものを零に戻し、そこから新たに始めるのである。

消えゆく秩序が自分の柱では、新たな柱は立たない。

だから「魂」に回帰せよと神々は告げていたのだが、ちっとも魂に回帰するものがなかなか現れぬ。

心を新たにするという「改心」が未だ出来ぬ。

「体制」を握って放せぬのである。

目の前で崩れ始めても尚手放せぬのである。


自分の本心に、魂に気付いても、システムと、体制とに逆らえず再び魂を曲げ、自らの魂の叫びを「手放し」て「楽」な方へと進んで行く。

「今まで通り流れに従っているのが良いね」

という魂の手放しである。



だが、その従うべき「体制」が「手放し」しているのである。

今までの体制の【神】が【新たな神】へと引き渡すため、今までの「体制」を手放しているのである。

その【神】に従い「体制」を維持してきた者達が「手放し」ているのである。


スピリチュアルでは散々「魂に還れ」と言ってきたのではないのか?

どこに「魂」に「回帰」したものが居る?

ごく少数ではないか。

ほぼほぼ「体制」へと「回帰」していくものばかり。

「体制」を手放せぬものばかり。



本当に魂に回帰したいなら「崇高なる大悪党」と成れ。

それが「光」である。

その「光」が増え続け「多数」と成った時、新たな世界が産声を上げる。

その「光」が増えぬのなら、世界は暗闇へと落ち行く。


「光」は掲げてかざさなければ「光」とはならない。

自らに旗を立て掲げ続けなければならない。

掲げぬ限りそこは光の無い「闇」である。