霊懸かりの渦 〈自ら生み出す霊〉
前回のブログで書いた「観」と「見」が理解出来れば、日本の神々の歴史が自ずと見えてくる。
『磐長姫』を『醜し(見にくし)』とした『瓊瓊杵尊』という神は、日本人本来のDNAに備わっている「観」が「弱い」ことがわかる。
神でありながら「見にくい」ということは、神本来の『言霊』が内在されている『言葉』に、『磐長姫』である『観』の部分が「少ない」ということが想像出来る。
恐らく日本へ渡ってきた民族が、日本を支配していく過程で自分たちの【神】と日本本来の【神】を習合させて【瓊瓊杵尊】が出来上がったのだろう。
支配していった民族は言うまでも無いだろう。
日本人は長らく日本の神と思って「外来神」も祀ってきたというわけである。
日本の神を岩戸の中に押し込めて、その上に別の神を被せたものを拝んできたのである。
習合させていく中で自分たちの神と日本の神を習合させ、その帳尻を合わせるための『神話』という物語を作り、支配統治を定着させていったというふうに推察できる。
その後も『習合』を繰り返し、残っていた日本の神々を少しづつ排除して、新たな神々を生んでは習合させ、やがて【神】と【人】を入れ替えて、『人が神』となる方へと向かっていったわけである。
神政から人政へと進めるため、幾度となく『岩戸閉め』を繰り返したため、霊界・神界に至るまで『カオス』が現出してしまったのだろう。
そして今、人は自らが起こした『灰汁(あく)』によって呑み込まれようとしているのである。
蛭子霊
次元の狭間には様々な生き物の世界がある。
この世にも「菌」や「ウィルス」という極小の存在から「植物」、「虫」、「爬虫類」、「鳥」、「獣」というふうに様々な生命が存在するように、あの世にも「狭間」にも様々な生命が息吹きしている。
それらはこの世の生物と同じように、善も悪もなく「在るべくして在る」ように存在しているだけである。
そんな「狭間の世界」である「潜像界」に「人の霊」も当然関与しているわけである。
例えば、人の『念』が凝り固まれば、潜像界に「響き」が起こり、それが色や形を為し始める。
念が強ければ強いほど「像」は強く現れる。
いわゆる『生き霊』と言われるものである。
だがそれは、生み出した人の思いに反応するのみであり、生みの親である人から繋がりは途切れることはない。
飛んでいっても戻ってくるだけである。
だが、それはある種の「霊体」という『器』となるわけである。
一つの強い「念」という思い以外は空っぽの器である。
そんな「空の器」に潜像界の存在が憑依する。
ある種のエネルギー体が別の強力なエネルギー体を見つけ、融合というか憑依することで存在が「成長」するわけである。
『弥栄』えるのが宇宙の理(ことわり)であってみれば、それは当然起こることである。
そのようにして潜像界において成長を遂げていく霊が存在するわけで、それらが何千年という時間の中で、いかに成長していくことか。
初めは虫のような小さなものでも、やがて爬虫類のようになり、小動物のようになり、獣のようになり、人のようになり・・・・・
人のエネルギーを吸収していれば人のようになってくるのも当然である。
人は常々「思い」を生み、それが現れては消え、また現れては消えしてゆく。
だが、強いシコリのような念は、潜像界に実体を長らく留まらせる。
そんな格好の『器』を彼らが放っておくわけはないのである。
すかさず憑依しそこから情報であったりエネルギーであったり、そんなものを引き出してゆく。
エネルギーを高めるために、生みの親である人の感情を揺り動かし、さらに念を凝らせてゆく。
それが長い間続けば、人の心には常にその「思い」が在る状態となり、感情という燃料で常に実体させ続けられるわけである。
そうして人は「霊懸かり」となるが、自ら生み出した霊は半ば自分であるから気付かない。
外側から感情を揺さぶられ、思考を誘導されても気付かない。
すべて「自分の考え」として理解するからである。
伊邪那美命から伊邪那岐命を求めれば「蛭子」となる。
それは、上記のような理由である。
「観」の目を塞がれた現代人は、霊に対して盲目なわけであり、これら「蛭子霊」と自分が一体となってしまっていることにも気付かない。
「霊が見える力」など無くとも「観」の目をもってすれば簡単に見抜けるのであるが、それが無いために「自分自身」すらわからない。
顔や挙動や、特に「目」に最も現れているが、まさか自分が・・・・とは夢にも思わない。
心の「内観」をすればわかることも、「内観」ではなく「内見」しているから見逃すわけである。
心の中にずっと「捨てられない」思いや念があれば、必ず「霊懸かり」となる。
「そんなものはない」という人も、結局は霊懸かりしているから、「無い」という嘘をついていることがわかる。
自分では無いつもりでも、案外たくさん抱えているのである。
それは「甘いものは少ししか食べていない」と言いながら、毎日なにがしか口に入れている人のようである。
太陽と月明かり
「観」とは太陽に照らされる如き「明るさ」で認知できることであり、「見」とは「月明かり」ほどの明るさでしか認知し得ないのである。
いかに現代人が盲目的かがわかるだろう。
現代における賢さは「月明かり」ていどのものでしかない。
「知恵」とはそういうものである。
「観」によって認知し得るものは「月明かり」など比ぶべくもないほどに大きい。
それを「智慧」という。
菩薩の智慧は太陽に照らされた如き智慧である。
月明かりで見えないものが、明らかなほどに観えるのである。
それを例えるなら、山の裾野の景色と頂上から観る景色の違いとなる。
だから山を登らねばならないのである。
登らねばわからない。
いくら裾野で想像しても、それらは妄想でしかない。
妄想している暇があるなら、一歩でも歩を進めるほうが良いに決まっている。
いくら想像したり話を聞いたりしたところで、結局は「月明かり」の暗がりからは脱せない。
知ったつもりになって満足したところで「観た」者には適わないからだ。
これだけあからさまな「霊懸かり」がウヨウヨしている様が現出している中で、自分自身も「同じ」に向かっていることにさえ気付けない。
なぜなら「同じ」だからである。
「みんなと同じ」であることを求めた結果が自分自身にも現出しているというだけである。
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