『観と見』 二つの瞳と「言霊」 ~《続・華厳の道より》
人は元来「観」と「見」の『二つの瞳』をもって世界の事象を認識するものであるが、現代人は「観」の眼が養われず「見」ばかりに囚われている。
おそらく現代の「教育」がそうさせているのだろう。
「記憶すること」に重点を置き、「外界」の認知にばかり囚われて、気付けば「見」だけが「正しい」とされる世界となっている。
もともと日本人は「観ずる」眼を当たり前のように持っていた。
外国人以上に「観ずる」ことが出来やすい環境にあるからに他ならない。
その「観ずる」ことが出来やすい環境とは『言語』である。
その証拠は「単語の数」が現している。
世界のどの国よりも圧倒的に「単語数」が多い国が日本である。
外国よりも多い「単語」とは、「観」による「単語」の数である。
『情緒』など「観ずる」ことで捉えられる事象を「言語」で現し表現するから圧倒的に単語数が増えるのである。
だが、「記憶すること」に重点を置き、「理系」が重視される教育の中ではどうしても「見」が主体になる。
「外側」の事象を「是」として「柱」と為し、情緒的な「見にくい」ものを軽視し続けてきた。
「観ずる眼」を養うのは『内観』することである。
それは「事象として見えないものを観る力」を養うこと。
様々な事象の「裏側」にあるものを認識する眼。
それが「観」である。
それを養うのが歴史や文学・哲学など、「文系」と称されるものの中にある。
だが、これも教える側が「観点」を持っていなければ、「観」の眼を養うことなど出来ない。
現代の教育では「記憶する」ことしか教えられないのである。
それはつまり「見」の見方しか持たない「観ずる力」の無いものが教えているからである。
さらに、教える側の人間の育成の中にも「観ずる」という「観点」が既に無い。
「観」は「事象の裏側」を見通す眼である。
だが、そもそも「事象の裏側」として捉えている時点で「観」の眼は曇っている。
「事象」とは、現れるその前に必ず「意思」があり「心」があり・・・
つまり「事象」を起こす「要因」が『事象の前に必ず存在』しているのである。
雨が降るという事象の前にも「気温」や「風向き」などの「要因」がある。
その「要因」が海面温度を上昇させ海の水が蒸気となって昇る・・・という次なる「事象」を生み、さらに「湿気を含んだ空気」を運ぶ「風」という事象が重なり、さらに「上空の冷気が下降」するという「事象」が生まれ、それらが重なって新たな「要因」となることで、その「要因」が重なった場所で『雨が降る』という「事象」に至る。
「観ずる」というのは「雨が降る」という事象の手前の要因を「観る」力である。
それは、昔の人にとってはごく当たり前のことであり、だから様々な「言葉」が生まれ、多くの「単語」となっていった。
しかし、現代の人は起こった「事象」に囚われてしまい、事象の手前にある「要因」を見逃してしまう。
これは「戦後から・・・・」と言いたいところではあるが、その実は「神話」の中に既にある。
「磐長姫を醜い(見にくい)として排除し、瓊瓊杵尊は木花咲耶姫だけを妻とした・・・・」
これが「観」を廃し「見」を柱とした『岩戸閉め』である。
仏魔の岩戸締め
日本人は元来「観ずる眼」を持っていた。
だが昨今では「観ずる」ということ自体を「逆輸入」している。
「座禅をして内観する」
一見、日本的なようであるが、これは「外来文化」である。
そもそも「言語」の中に「観ずる」視点があるというのに、わざわざ外来の「見」の視点に自分を一度置いて、その後「観」の視点を得ようとしているのである。
しかも「観」を多く含む「言語」を離れ、「見」から生まれた「言語」で解釈しようというのである。
一度自分が持っている「観」を捨て、「見」の立ち位置に立って「観」を得ようというのである。
なんと無駄なことをしていることか・・・・・・
これが、神話に続く「仏魔の岩戸閉め」である。
「観」とは事象が起こる「要因」を観る眼であり、「見」とは「事象」そのものを捉える眼である。
それは「観」は「火」であり「見」は「水」である「火水の理」
火は霊(ひ)であり日(ひ)である。
水は身(み)であり月(み)である。
火は「・」であり水は「〇」である。
つまり「観」は「・」であり「見」は「〇」ということである。
「・」は左目
「〇」は右目
「・」という【天照大御神】
「〇」という【月読命】
人の岩戸が塞がれて、はや数千年の時が経つ。
「観」の眼を塞ぎ「見」ばかりになった人の心は、「柱」の無い、「玉」の無い、空っぽの「〇(こころ)」となっている。
実際は「曇って」いるから太陽(・)が隠れているわけであるが・・・・
人の岩戸を塞いだというのは「観」という【天照大御神】である「左目」を塞いだということ。
「観」の眼が無ければ【神】は捉えられない。
「観」が無ければ【神】とは繋がれない。
そして「観」の目がなければ心の中に「神ならぬもの」が「・」として入り込む。
いとも簡単に入り込み、その者の心の「柱」となる。
心が曇って「柱」を失った人は、とりあえず何でも良いから「柱」を求める。
そうして「神ならぬもの」を「柱」に据え置くようになる。
「見」の右目しか見えぬ者が定める「柱」は、当然のことながら「事象」が「柱」となるわけである。
「要因」よりも「事象」が大事であり、「事象」さえよければ「要因」はどうでもよくなる。
だから世界は今このような姿となっているのである。
日月の大神
「観」と「見」の両目が揃って初めて「岩戸」は開かれる。
だがしかし、せっかく「霊性」というものに目覚めても、相変わらず人は「片目」で物事を見ようとする。
「霊性」に目覚めた途端に「右目」を閉じるのである。
つまり「現実」から乖離し始める。
多くの「スピリチュアル」というものは「現実」から「乖離」することで「霊性」を担保しようとしているように見える。
まあこれは片目で見ることに慣れすぎた「癖」が抜けないと言ってしまえばそれまでであるが、それでは「目覚め」からはほど遠いのである。
単に「裏表」がひっくり返っただけのことで、結局の所「反対側」へ行ってしまったというだけで、相変わらず「片目は眠らせたまま」という状態である。
眠っていた左目は目覚めたが、今まで起きていた右目が眠り始めた・・・・ということだ。
だから平気でどんどんと「乖離」していってしまい、行ったまま帰って来ようとしない現象に見舞われている。
現実そのものを「平面」で見る癖のまま、相変わらずの「片目運転」では結局の所「平面」でしか物事を見ていないことに変わりは無い。
しかも、相も変わらず「逆輸入」である。
これでは日本人より外国人の方が早く「目覚め」に至るであろう。
日本語の中には多くの「観」から生まれた言葉がある。
その言葉の中には「観」の【言霊】が生きているのである。
それは「左目の天照大御神」の「御霊」が息づいているということに他ならない。
だが
「左目の天照大御神」は『真の天照』ではない。
あくまで「仮」の『天照』である。
まあそれも塞がれてしまったのであるが・・・・
その『仮の天照大御神』であるはずの『左目の神・磐長姫』を岩戸で閉め出し、『右目の神・木花咲耶姫』だけにして、さらに『別の神』を『天照大御神』としてこっそり置いたのだ。
真の天照皇大神
天照は本来「統べる」神である。
ゆえに『天照皇大神』である。
それは単なる「太陽神」ではなく、昼夜隔てることなく遍く『照らす』神である。
ゆえに天照は日と月を「統べる」神。
日月の「柱」そのものである。
「観」と「見」という「要因」と「事象」を「結ぶ」ことが出来なければ、『天照皇大神』は「岩戸の中」のままである。
事象の手前に要因があり、さらにその要因という事象の手前にも要因があり、その先さらにまた要因があり・・・・・
人という存在の「事象」の中に「霊」という「要因」があり、「霊」という「事象」の中に「意」があり、「意」という「事象」の中に「神」があり、その「神」の中にもまた「神」があり・・・・・
連綿と続く「〇」と「・」の重なりである「⦿」の連続の中に通る曲がらぬ「柱」
それが【天照皇大神】である。
『木花咲耶姫』の中に『磐長姫』がいて、『磐長姫』の中に『稚櫻姫』がいて、『稚櫻姫』の中に『瀬織津姫(天照皇大神)』がいて、『瀬織津姫(天照皇大神)』の中には『天之御中主神』がいて、『天之御中主神』の中に『天之常立神』がいて・・・・・・
そして『天照皇大神』は『木花咲耶姫』の中に内在し、『磐長姫』の中に内在し、『乙姫神』の中に内在し、『三女神』の中に内在し・・・・
それはつまり『人』の中に当然の如く内在している。
塞いでいるのは「人」であり「神」ではない。
自ら『眼』を塞いでいるからである。
目覚めるとは、確と『両目』を見開くことである。
「観」と「見」の両目を見開いて、その「結び目」を観るのが「第三の眼」
『柱の眼』である。
そこが『天照皇大神』の坐す【蓮華座】である。
今、世界を、周りを見渡してみればよくわかることである。
いかに『観』の眼が失われているかということが。
だから世界は「言葉」という「陰」に踊らされ、人々は「言葉」に右往左往する。
「言葉」という「陰」の前にある「言霊」という「陽」が見えないから右往左往するばかりとなる。
さらには「言霊」の前にある「意」も見えず、その前にある「神」など到底見えないだろう。
瞳
『瞳』とは『火と水』である。
さらに『瞳』とは「童(わらべ)の目」である。
まだ「火と水」の目を塞がれていないものの「目」
さらに『一と三』である。
『一』と『三』を結ぶ真中の柱は『二』
二二八 八レ十 二ホン 八レ
二字(富士)は晴れたり日本晴れ
一と三(ひとみ)開いて曇りを晴らし
二字(富士)に『木の花』咲かせ行く
岩戸開きの『要』なり
岩戸開きの『要石(意思)』
【磐長姫】の眼を開かれよ
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