予言された祓いの技 《瀬織津姫の大祓》




霊懸かりとは「それ」とは気付かないものである。

そして、人は「霊懸かり」に依存してもいる。


この意味がわかるものは少ないだろう。




霊能者の霊的な能力は「霊」に依存して成立している。

自分に憑いた「霊」の能力に依存しているわけである。

それを「守護霊」と呼ぶ者もいるだろう。

「守護神」と呼ぶ者もいるだろう。

「自分の魂」と呼ぶ者もいるだろう。

それらの呼び名は自分の主観である。


「守護霊」「守護神」と呼ぶそれらの「霊」は、では本当に『神』なのか?

「神的」な力を持つそれらは、ある意味『神』であろう。

だが、「何の神」かはわからない。

そして、わからないから好きなように名付ける。

すべては主観である。




私の所に来た姫神もいわば「霊」である。

それは『分け御魂』としての「霊」であるから『出所』がはっきりしている。

そして、他者に観て確認したから「主観」ではない。


まあそれはいいとして、この「分け御魂」は私の思考をしっかりとコントロールする。

知らなければ「コントロール」されていることなど夢にも思わない。

それが『霊懸かり』というものである。

出所がはっきりしている『神』の「霊」であるから『神懸かり』と言われるわけで、出所がはっきりしていなければ、それは「霊懸かり」ということである。

ではなぜ「出所」がはっきりしているかといえば、そのように「お膳立て」されたからに他ならない。

その「お膳立て」をする時には「他者の意識」をもコントロールする。

そうして必要な人と出会い「お膳立て」が整うのである。


ただ、「お膳立て」だけで私は納得しないので、常に目を光らせて『分け御魂』である姫神の活動をしっかり観てきた。

ちょっとでも変なところがあれば、それは単なる「霊懸かり」でしかない。

だがしかし、結局のところそんな「霊懸かり」と『神懸かり』が区別出来るようにも「お膳立て」が敷かれていた。

ありがたいことである。




霊懸かり


最初に「人は霊に依存する」と書いたが、それは「自分自身の欠点」を補うために「霊」の力を借りているということである。

自分の弱さを補うために「獣」のような「強さ」を借りるため、獣から派生したような強い「霊」の力を借りているものも多い。

劣等感を補うために「天狗」のプライドを借りているものも多い。

自らの心の「求め」と「霊」の波動が一致した時、契約が結ばれるように「霊懸かり」となる。

心の「求め」とは「想いの凝り」であり「霊」の「器」となる「生き霊」である。

その「生き霊」に「霊」が宿り「霊懸かり」となって、ある意味「守護霊」「守護神」となるわけである。

何を「宿す」かは人の心次第。

ただ、当の本人は「霊懸かり」とは全く気付かない。

自分の弱さを補う時に、自分と霊が「入れ替わって」いることに気付かない。

なぜなら、自分自身も「霊」であるから。

そして、身体は、脳はその「区別」など出来ない。

どちらも「自分」としか判断出来ないのである。



人とは、自分とはそれほど「空虚」なものである。

「霊」なくして存在しえない「空虚」な『器』なのである。

仏陀が一生懸命説明したのだが、さほど伝わっていない。


自分の欠点を補うために「霊」の人格を借り、その「代償」として「霊」が求めるものを渡す。

渡しているのは「想い」というエネルギー。

それが「霊」を強くする。

想いの「凝り」がより成長して強くなり、やがて自分の「大半を占める」ほどになる・・・ということである。


自分の中に「いつも」シコリのようにある「想い」

それが「霊の器」となり「霊懸かり」を強くする。



スピリチュアルにおいて「自分の欠点を認める」という言葉がよく使われる。

だが、心は「認めたくない」わけで、そこで「認めなくてもいい」道を見つけようとする。

そこへ「守護神」のように憑いていた「霊」が「代弁者」となり、欠点を補填するわけである。

長年の想いの「凝り」に宿った「霊」である「守護神」である。

その「補填」をもって「自分を受け入れた」と一段落する。

そして「守護神殿」が活躍し始める。

本人は「欠点が解消された」として、今まで欠点ゆえに出来なかった「欲」に走り始める。


これは「多重人格」の第一歩である。

実際「自分の欠点を認める」という現実は解決していない。

だから時折「欠点」が湧き出す。

そして、それを補う「霊懸かり」を強めて反対側へ針を振る。

これの繰り返しとなる。




数々の姫神の「お膳立て」でそういった人たちを、今まで何人も見せられてきた。

私自身の眼を「養う」ためでもあっただろう。

だが、それだけではない。

4年ほど前に「あなたはいずれ祓いをする。でも今はまだそれが出来ていない。」『予言』されていた。

強烈な『禍霊』を自らの中に取り込んで、まるで二重人格のようになっていた人が居たが、「いずれその人に祓いをする。」とも予言されていた。

そのときは「へえ~」という感想しか出てこなかったが、今になると「なるほど」と思える。

【祓い】の技が出来たからである。



【祓い】をするには「想いの凝り」である『生き霊』を祓わねばならない。

だが「霊能者」ではこのことがよくわからないようである。

強力な霊能者であっても、それは強力な「霊」の力を借りているからで、その「霊」が【祓い】というものを出来なければ「何も出来ない」のである。

だが実際の所は「自分と同じような霊」を「いじめる」ことはあっても「祓う」ことは出来ない。

「死霊」を追い払う程度ならいくらも手段があるだろう。

しかし「想いの凝り」から生まれた「生き霊」に宿った「霊」を切り離すのは別のことなのである。

まるで「守護霊」「守護神」のように振る舞っている「それ」らは、いわば当人の「別人格」でもある存在だからである。

だが、「それ」が居る限り「自分自身の本来の魂」に還ることは難しい。

かならず「それ」が邪魔をする。


言い聞かせ、諭して「理解」できるほどの「真っ当な霊」ならいいが、そうではない場合がほとんどである。

それは、当の本人が「手放したくない」という強い想いがあるからだ。



私にそれが出来るのは、ひとえに【祓いの神】そのものの【神】の「分け御魂」の力だからである。

これは「死霊を祓う」ものとは訳が違う。

【禊ぎ祓い】なのである。

【禊ぎ】は『身削ぎ』

人格の間を行ったり来たり蛇行する、いつまでも軸の定まらぬ『巳削ぎ』でもある。

『想いの凝り』を禊ぐのである。


実際、背中や肩に貼り付いているような「死霊」とは違い、「腹の中」「胸の中」「頭の中」に入り込んでいる。

自ら「招き入れた」のであるから当然である。

そして、「霊」はそこから出たがらない。

だからけっして人では祓えないものである。


これを「切り離す【身削ぎ】」をするか、それとも【改心】させるか・・・

そういう【祓い】なのである。


霊を祓い改心させるだけではなく、当の本人が一番【改心】せねばならないのである。

同じ事を繰り返せば、同じ生き霊という「器」を生み、再びそこに「霊」が宿る。

だから「けっして繰り返さない」という【改心】が必要なのである。



ま、ほとんどの人は「自分は不要だ」と思うだろう。

なにせ自分で気付けるだけの力はないはずである。

あってもなかなか手放せない。

だから「改心」「改心」としつこく神示などで言われているのである。


「自分が善人と思っている者ほど改心出来ない。悪の改心は早い。」


「改心」とは「己(おのれ)」を「攵(打つ)」心である。

自分自身を「躾ける心」である。

「祓い」とは「示(神)」が「犮(はねる・払いのける)」ものであり、「人」が行うことではない。

『神の力』を「借りて」行うものである。

だから、いくら「霊」に力があろうと「霊ごとき」なのである。

「守護神」「守護霊」のようなものであれ同じこと。



「歪み」があるなら容赦なく「祓う」


それが『予言された祓いの技』

【八剱祓】である。





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