【神】の『御用』をするということについて



おそらくこのようなことを書くのは金輪際になるだろう。

書きたくはないが書いておかなければ面倒になるのであえて書かせていただこうと思う。



多くの「にわかスピリチュアル」というものが長年にわたって人の「承認欲求」を満たすビジネスとして続いてきたために、多くの人の「承認欲求」を肥大化させたがゆえに、その肥大した「欲求」の当てを求めて彷徨うばかりの世界が広がっている。

そんな「スピリチュアル」の世界が私は元々「大嫌い」であった。

「神様」などと言う人が居れば敬遠していたくらいである。

だから、我が身に【神】が現れても「喜び」というものはなかった。

ただただ今まで経験したことの無い「体験」の中に突入していき、それが一体何なのかが明確にわかる人など誰も居なかった。

だから、毎日が「探求」の連続である。

毎日毎日手探りで「現象」と向き合い、自ら「掴んで」いくしかなかった。

ただ「導き」というものがあり、それが「答え」に導いてくれただけである。

ただそれも「答え合わせ」などしようが無い。

誰も「答え」を持っていないからである。


多くの「スピリチュアル」の世界には【神】への「答え」は無い。

あちらこちらで【神様】を語ってはいるが、そのどれもが「体験」というものが無いことが如実にわかる。

まあ、知らないだけなのかもしれないが、私は元探偵である。

調べるのは専門である。


そうして自らの体験に対する「答え」のようなものをようやく見つけたのが出口王仁三郎氏であった。

同氏の言葉だけが自らの「体験」を裏付けていた。

あとは「古典」の中に行かなければ答えは見つからない。



スピリチュアルとはそんな世界である。

だからそんな世界が私は未だ大嫌いである。

肥大化した「承認欲求」に振り回されて、もはや自分ではどうしようもなくなっているのだが、それでも欲求に振り回され続け、自ら『業(カルマ)』を増大させている。

その増大した『業』の重さに気付かず、自らは「軽い軽い」と思考を「空っぽ」にさせて、頭の中だけは見事に「軽く」なっている。

だが、『業』の重さに螺旋を上がれず、この「一大事」の時にも螺旋の階段を踏み外してしまった人たちは哀れである。


『時節は神でも逆らえない』


そんな『時節』を逸してしまったということである。

次の『時節』まで待たねばならないだろう。



【神】の「導き」というものは、実際のところけっして楽しいものでは無い。

常に「忍耐」や「身を削る」ことを求められるものなのである。

多くの人が『それ(導き)』が起こったなら、そこから「逃れよう」とするだろう。

なぜなら、「積み上げた」ものを一気に崩されるからである。


『それは邪魔だ、必要無い』


そうして無慈悲に積み上げたものを壊すのである。

『神のお役』は「その先」にようやくおとずれるものなのである。

神が壊したものを再び取り戻そうとすれば、もはや『お役』へは進めない。

そして、それでも『進む』という「想い」と、その理不尽さを「楽しめる」ものだけが『お役』『御用』を行える。



我が身に【神】が現れて最初の二年は、あちらこちらへと走り回った。

導かれるままに行きたくもないところへ足を運んだ。

その後の二年は自分に向き合い、おそらく「細胞」を変えさせられた。

瀬織津姫が現れた最初の時から「身体の浄化」は必須課題であった。

今までのあたり前の生活で出来上がった身体は、この先「使えない」ということである。

よく、スピリチュアルで「細胞の書き換え」や「DNAの書き換え」などというものを目にするが、『神でも時節には逆らえない』のである。

だから二年の歳月をかけて「食」や「生活様式」を変えて自らの身体を、細胞を「時間を掛けて」変えていったわけである。

だから、昔は平気で食べれていたものが今では一切身体が受け付けないほどに変化している。

「毒」がよくわかるようになったわけであるが、そうなると現実問題として食べるものが限られてくる。

食の「量」も変わり、その変化の途上はそれはそれは苦しい日々である。

今まで出来ていたことが出来なくなり、さらに生活様式も変更せざるを得ない。

だから、そこで再び多くのものを捨てることとなる。

そうして捨てた分、更に出来ることも増える。

それが【神事】なのである。



私の所にも肥大した「承認欲求」を持て余した人が訪ねてくる。

そういう人を減らすためにブログを書いてきたが、それでも来る。

ここへ来ても「承認欲求」は満足させてあげられない。

ここは【神事】をする人のための場であり、【神事】を目指す人のための癒奏術の技を【神】から与えられたのである。

だから【神事】をしようと思う人以外来てもたっても意味がない。


瀬織津姫の言葉はいつも同じである。

【情熱】無き者 寄るべからず

【覚悟】無き者 来るべからず


情熱も覚悟も無いのなら、どうぞ他所へ行っていただいた方がいいでしょう。

そのほうがきっと満足が得られるはずです。


ここ(響庵)はスピリチュアルな「満足」を提供するところではありません。

壊れ行く世界の中で【神】の導きを受けて『お役』をする【神事】の場です。

【神】の手足と成って、この壊れ行く世界で『神の意志』をこの世に具現する人の場です。


今まで自分が積み上げたものを『手放せる』だけの【情熱】と【覚悟】がなければ通用しません。

もし、その【情熱】と【覚悟】を持ち続けることが出来るなら・・・

【神】は喜んで迎えるはずです。

この世で働く「手足」を欲しているのですから。

だがそれは、肥大化した【承認欲求】を綺麗さっぱり洗い流してからでなければ、重すぎて【神】の御言が届かないでしょう。

御言が届かなければ導きは受けられず、結局は『お役』に立つことは適わないのですから。




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