『神癒』 ~魂の癒し 《癒奏術・水月抄》




多くの人は自分の人生の「不満」を解消するために、「恐れ」から逃れるために、あがき、もがいて癒しを求め、再びあがき、もがく道へと帰って行きます。


初めから「不満」を抱え、あがきもがく自分を抱え、常に「足りなさ」を抱えている。

それは自分が自ら「不満」を握って手放さず、「恐れ」を握って手放さず、いつまでも「それ」を背負って歩いているから「逃れられない」のです。

そして、「不満」や「恐れ」から逃れようと「楽しみ」や「喜び」を追いかける。

だがそれは一時の忘却。



「不満」や「恐れ」を「忘却」し続けることが「喜び」などではけっしてないわけで、「忘却」し続けようとしているところに「忘却」出来ない自分がある。

「忘却」しようとする自分は「それら(不満・恐れ)」を握っていることを常に心の片隅に抱えている。

だから逃れられない。


「逃げた先に楽園などありはしない・・・」


誰の言葉だったか・・・

逃げれば「影」に付きまとわれる。

その「影」を生み出しているのは他ならぬ自分自身。

だから「楽しみ」を追いかけ、「喜び」を追いかけようとも「楽園」にはけっしてたどり着けない。

「喜び」とは「追いかけて得る」ものではなく「巡り来る」ものだからだ。



されど人は「喜び」に執着する。

その「喜び」とは「過去の記憶の中にある」もの。

だから「過去」に囚われる。

かつての「喜び」を再現しようと囚われる。

「不満」や「恐れ」も同じ。

「過去」の「感情の記憶」である。

「過去」という「変えられないもの」に囚われて、「不満」や「恐れ」を解消しようとしても出来るわけが無く、「喜び」を追いかけても捕まえられるわけもない。


そうして「囚われて」いる限り先へは進めない。

進んだつもりになっても、やがて引き戻されて行く。




「喜び」も「悲しみ」も「怒り」も「恐れ」も『ひとときの思い』にすぎない。

すべての感情は「弥栄」のためにある。

それが「道理」なのだ。

どれか一つ欠けても「弥栄」とはならない。

悲しみや恐れから「逃げる」ということは、「弥栄」の巡りから「逃げる」ということ。

だからいつまでも堂々巡りを繰り返し、螺旋の円環を上がって行けなくなる。

そして、「逃げた」からこそ「過去」に『囚われ』たということだ。

それは「乗り越えていない」という事実がそこにある。

だから先へは進めずその「時間」に囚われる。

そうして次元を上昇し行く地球から取り残されているのである。



取り残されまいと「喜び」を追いかけて、「喜び」に浸かり続けても、新しい地球の「弥栄の巡り」から外れている。

「喜びが波動を上げる」と言った誰かの『嘘』に振り回され、「喜び」に留まり続けるということは「巡り」を止めるということ。

それでは螺旋を弥栄に「上がり続ける」地球から取り残されるのは「必然」なのだ。



悲しみや痛みや恐れを「負の感情」と定義し、そこから「逃れる」ことが「波動を上げる」などという『嘘』は、恐らく人が最も好むところだろう。

だから簡単に飛びつく。

そうして「喜び」が「愛」だと『勘違い』して、「喜び」に浸ることを「愛」とした。

だがそれらは『愛』などではなく、すべて自分への『慰み』である。

「愛」という言葉を使い「自慰行為」を見せ続け、それを他人へも進めて「自慰行為」を集団で行う様は、「スピリチュアルジャンキー」と言われても仕方が無いほど愚かで滑稽な見世物でしかない。

だが多くの人は「忘却」を求めてそこへ群がる。

ゆえに「ジャンキー」そのものなのだ。




いくら「喜び」を謳歌しているように見えても、「幸せ」であるかのように見えても、「喜び」の裏側に逃避した「負の影」を抱えているから、波動はけっして上がらない。

ざらつき、刺々して、ねっとりと思いエネルギーを発している。

「喜び」というエネルギーの仮面を被っている「黒い物体」が常に見える。


おそらく「本当に目覚めた」人たちにはそれらが見えているのであるが、そんなこととはつゆ知らずに振る舞っている様を見ると、「目覚めた」と言いながらも「目覚めていない」ことがすぐにわかる。

真に「魂の目覚め」に至った人なら、それを見ずとも「魂」が察知するからわかるのである。




そうして「巡り」から外れて「堂々巡り」をする人たちは、「堂々巡りをする霊」と共にある。

死んで「思い」に囚われて堂々巡りをする『浮遊霊』と「同じ波動」を放っているということに気付かない。


「霊」はそこら中にいる。

こうして今、私が文章を書いている間も「霊」はすり寄り「思い」を入れてくる。

だがほとんどの人はそれら「霊の思い」を「自分の思い」としか感知しない。

だから「四六時中霊懸かり」となっていてもわからない。

テレビや映画の影響で「霊懸かり」を誤認しているから尚更わからないだろう。

そして、「喜び」に囚われた人々の「集団霊懸かり」の中にいれば尚更わからないだろう。

さらに、そんな「霊」を『神』と呼んでいるから、もはやそこから抜け出すのは容易なことではないだろう。


そんな「霊」達を呼び寄せているのは他ならぬ「自分の思い」であり、その「波長」にあわせて「引き寄せられて」きている。

ひとり、ふたり、三人と、増えれば増えるほど霊懸かりは強力になる。




2020年以降、「集団霊懸かり」は激増した。

死んで思いに囚われた「霊」だけでなく、人々の集団が生み出す「生き霊」が増えた。

同じ時に同じものを恐れ、囚われ、逃げ、堂々巡りの「渦」に飛び込み、集団の「同じ思い」が凝り固まって「生き霊」となる。

その巨大な「霊」に取り憑かれてしまっている。


知恵あるものがそうやって「流れ」を生み出しているわけであるが・・・・





「逃げる」から『囚われる』

「留まる」から『囚われる』

それが顕著に目の前に現れているのだが、人は「渦」に巻かれてそれらが見えない。

逃げた先に「楽園」は無い。

「楽園」は常に「鼻先」にある。

「弥栄の巡り」という「上昇する渦」に乗ることで、そこは「楽園」となる。

誰かの喜び、誰かの成功体験の中には、自分の「楽園」はけっして無い。

巡り、喜び、悲しみ、痛み、恐れ、怒り、功を成す「渦」こそが「楽園」へ至る道なのであるから。



魂が望むのは「弥栄」

魂に目覚めたのなら「逃げる」ことなど無く、「留まる」こともしないはず。

悲しみに向き合い、痛みに向き合い、恐れに向き合い、怒りに向き合い、喜びに向き合う。

逃げずに向き合い続けることが「魂」の望みであるのだから。




自分が過去に囚われていれば、そこに立つ大地も過去のもの。

過去の地球に「置き去り」にされようとしていることに気付かなければ、過去と未来の「二線」に分かれた大地の、自分が「どちら」に立っているのか気付かなければ、『魂』ともども「過去」として「流される」のである。


伊弉諾大神と伊弉冉大神が『別れた』世界はもう終わり、夫婦揃って「弥栄」を完成させる。

岩戸は開き夫婦神はもう共にある。

ゆえに過去と弥栄の「二線」に別れた。


神々は忙しく動き、『伊都能売神』は【大祓】を始める。

「大蛇」となった「大渦」を退治するために、再び「素戔嗚大神」は現れる。

自分の足下にある大地が「どちらの渦」にあるのか?

地を這う「大蛇」か上昇する「龍」か?

【龍王】たるが「素戔嗚大神」なのである。





【龍】はそこら中にいる。

【白狐】もそこら中にいる。

縁あって家に来た犬猫ならば愛情込めて面倒を見るが、【龍】や【白狐】に愛情込めて面倒を見るものはほとんど居ない。

しっかりと愛情込めて接している人には、常にちゃんと【龍】や【白狐】は見守っている。

だが、いくら縁で結ばれても、ほったらかしでどうしていつまでも「居てくれる」わけはない。

「見えないから」

と人は言うだろう。


愛も心も思いも「見えない」ものである。

だが確かに「在る」とわかるもの。

そんなものはたくさんある。

【神】も同じ。

ほとんどの人には見えない。



人は長らく「見えない」ものを蔑ろにし過ぎてきた。

瓊瓊杵尊が磐長姫を「醜い(見にくい)」といって遠ざけた時からか・・・・

それは遠い昔の【歪み】の始まりであっただろうか・・・・・


「見にくい」からといって「見ない」でいいわけはない。

確かに「在るべくして在る」のだから。

『神』も『龍』も『白狐』も確かに「見にくい」わけだが、それはけっして「見えない」ということではない。

『心』と同じく「目に見える」ものではないだけで、別のかたちで『観る』ものである。

「でもやっぱり観えない」と人は言う。

では、その前に『心』を本当に『観て』いるのか?

自分の『心』すら観えずして、あれが観えない、これが観えないというのは、ただの「怠惰」であろう。

自分の心の闇から逃げて、見ないようにしていながら、どうして『神』が観えようか・・・

観えないのは観えない世界から「逃げた」からに他ならない。

心の闇は逃げても消えはしない。

「在るべくして在る」

だからどんなに逃げようとも「影」となって付きまとう。

それは「在る」から「在る」だけだ。


そうやって「見えない」ものから逃げていながら「神が見えない」「龍が見えない」と苦情を言っても始まらない。

『神』も『龍』も「在るべくして在る」存在であり、「居るべくして居る」わけである。


『神』や『龍』や『白狐』たちに「犬猫以下」の扱いをしておいて「神が見えない」「龍が見ない」「狐が見えない」、だから愛情を「注げない」と言う。

だが、ちゃんと愛情を注いで向き合っている人には、ちゃんと『神』が守り『龍』や『白狐』が憑いているのである。

何もせず「出来ない」理由ばかり論って(あげつらって)「やらない」だけではないのか?

不平不満ばかり言い、それを持ち歩いているから「霊懸かり」となるのである。

「愛」と嘯(うそぶ)き「自慰」ばかりしているから「霊懸かり」となるのである。

自らの行いが『神』を遠ざけているにすぎない。

「自慰」のために『神』や『龍』や『狐』を求めるその様は、『神々』や『龍』たちを下賎に貶めていると知らねば、いつまでたっても『神』から遠ざかるばかりであろう。

『神』を自らの「自慰行為」の道具としている「おぞましさ」は、あちらの世界から見れば「吐き気」のする穢れた行為なのである。




神々も龍達も「弥勒の楽園」に居る。

それは人々の「鼻先」にある。

だが、その「鼻先」の世界が非常に遠い。

それは「鼻先」の楽園に背を向けて、全く別の方向へ向かっているからである。

鼻先にいる神に、鼻先にいる龍に手を伸ばせば触れ得るのに、明後日の方向を向いているからである。


神々も、龍達も、白狐達も、心で観るもの。

だが、その肝心な「心」から逃げているから観えない。

波打つ心を鎮めなければならないのに、波打つ心から背を向けて、荒れたままの心の水面に映るものは全てが歪む。

その心の歪みが身体に映る。

心の水面の荒れは自らの霊の荒れ。

霊が荒れれば身体の水面に映って移る。

神が悪魔に見え、悪魔が神に見える。

禍霊が神に見え、神が遠のく。



「病みに罹る」は「闇に懸かる」こと。

されどそれは免疫反応であり、「闇」を排除するためのもの。

身体の免疫が病の原因を排除しようとするように、霊の免疫は「闇」の原因を排除しようとする。

それは「巡り」を取り戻すための免疫。

自らの「闇」と向き合う機会である。


されど、その「免疫」すら人々は否定し始めた。

「無症状」を良しとして、「症状」を悪とした。

それゆえ自らの「病み」に気付くきっかけさえも失いつつある。

だから「闇」を抱えていても気付かなくなる。

「症状」とは「痛み」や「辛さ」や「悲しみ」「苦しみ」「恐れ」

それらを「悪」として廃すれば、気付きを失い「病み(闇)」は進む。

ただただ「喜び」を追いかけるのと同じでなのである。

「スピリチュアルジャンキー」の如く「ワクチンジャンキー」と成り行く。

そうして世界は『闇(病み)』に包まれた。

誰のせいでも無く「自ら進んで」行ったのである。



『逃げた先に楽園などない・・・』


「在るべくして在る」ものは在り、けっして無くすことなど出来ない。

その「在るべくして在る」ものとの『調和』を離れて『楽園』などやっては来ない。

痛みや苦しみ、悲しみを「廃して逃げる」のか、それとも「和して巡らせる」のか?

向き合わなければ「和す」ことは出来ない。


春夏秋冬が巡る如く、喜怒哀楽を調和し巡らせるのが「理の道」

そこが『楽園』であり、そこから逃げれば『失楽園』へと向かうだけである。





そのゆえに、【癒奏術】の癒しはけっして「逃がさない」

【羅生門】があり【八剱祓】があるのはそのためである。

『神人一致の癒し』へ至るには、「逃げ」てはけっしてたどり着けないからである。

逃げても追いかけはせぬ。

逃げたければ逃げればいい。

だが、そこにはけっして『楽園』は無いことだけは知ってほしいと思う。

何故なら、『魂』は逃げることなど望んでいないからである。




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