『愛と誠』 《癒奏術・水月抄》
「三人寄れば文殊の知恵」
昔の人はそう言うが、実際は「三人寄れば妬み僻み嫉みが現る」と言ったところだろう。
子供の頃から何にも変わらない。
何十年同じ事を人は続けるのであろうか。
自信のなさをそんなもので吐き出して、プライドだけは天狗並み。
人を傷つけることで一時の満足を得ても、根っこが変わらないから再び同じ「妬みの花」を咲かせることになる。
いくら笑顔を取り繕っても、腹の黒さはダダ漏れで、笑うたびに闇が出る。
その気持ちの悪さ・・・・
「人間とはそういうもの」と決めつけて変えようともしない。
テレビに向かって文句を言い、ネットで悪意を打ちまける。
自分に向き合わず、自分を知ろうともせず、だからいつも自分が足りない。
「自信が無い」と謙虚のつもりで、自己信頼の無さを言う。
自分を信頼出来ない者が、他人を信頼するわけは無し。
常に猜疑の目で人を見るから、それと同じ波動が漏れ出る。
ねっとりとした黒い波動で、笑顔ふりまいても意味は無い。
小学生の頃、二度ほど転校したことがあるが、転校するたびにいじめっ子といじめられっ子の狭間に立つ。
うんざりしながらそれでもどちらも付き合っていると、やがて諦めて何も言わなくなる。
それが出来たのは「自分は自分である」と思っていたからだろう。
自信が無ければどちらかに転がっている。
いじめられまいといじめっ子の言うとおりにして、自分もいじめの加担をするか、もしくはいじめられっ子となるか。
自信の源は「特別な才能」ではない。
それは単に人の「言い訳」である。
自信は「自己信頼」である。
自己信頼は「自分に正直」であることだけである。
自分で自分の心を「曲げる」から信頼できない自分が生まれる。
嘘つきな自分を自分で生み出すから信頼出来なくなる。
「自分は嘘つき」
それが常に心に付きまとう。
だから他人も信用しない。
信用しないのに「友」と言う。
笑顔の下には黒い影。
真っ直ぐなのか曲がっているのかは、一目見ればわかる。
曲がった者との会話ほど益の無いものはない。
言葉と心が違うのがわかっていながら話をするほど面倒なことはない。
どれだけ言葉を尽くそうとも、何も変わらない。
無意味な時間を「喰われる」だけ・・・である。
自分を信頼しないから、けっして他人も信頼しない。
だから友ともなれず仲間ともなれず、独りよがりの友達ごっこ。
おそらく友達とは「ごっこ遊び」となっているのだろう。
SNSは「ごっこ遊び」の宝庫である。
風の時代に入ってから、世界の「曲がり」が如実に現れだしている。
あちらこちらで「嘘」が暴かれているが、それは「裸の王様」が「裸である」ということを「隠せなくなった」ということ。
それは同時に「自分の曲がり」も隠せなくなっている・・・ということにはまだ気付いていないのか?
さんざん「三密」「三密」という言葉が飛び交ったというのに、未だ「三密」をそろえられない「曲がり者」。
心と言葉と行動の「三密」が曲がったままで、どこへ行こうというのか?
自信が無いといつまで言っているのか?
いつまで自分を曲げているのか?
三密揃った「誠」無き者は、ここから先へは進めぬ。
「誠の者」と「誠無き者」が「二線」に別れ行く世界であると100年も前から言われているというのに・・・
未だ「曲がり」があるから神と繋がれぬのである。
神懸かりと称して「霊懸かり」するものばかり。
神に祈れど曲がっているから神に届かず、霊に届いて霊懸かりするのである。
心に天狗が棲んでいるから天狗懸かりとなる。
餓鬼が未だに棲んでいるから餓鬼懸かりとなる。
獣が棲んでいるから獣懸かりとなる。
御魂相当のものが懸かっているのである。
自信が無いと言うことは、そこに「自愛」は無い。
自分を尊べず、愛せず、ゆえに他者も尊べず、愛せず。
自分と「結ぶ」ことも出来ておらぬのに、どうして【神】と結べるか?
自分と結ぶは自分を曲げぬことである。
魂から発する「意」を言葉とし、行動として初めて「誠」である。
曲がりながら「魂に帰った」と言い、身慾を真中にして曲がっているから【神】に届かず「霊懸かり」となるのである。
時がここまで来て未だに曲がっていると言うことは、「守護神」そのものが曲がっているのである。
「曲がる」ことを良しとしてきた守護神達が、未だに改心出来ておらぬということである。
守護神も叩き直さねば直らぬほど、世界は曲がりに曲がっている。
「誠の神」とは三密曲がらぬ神である。
世の元からの生き神に届くには、守護神も「誠」でなければ届かぬ。
もう三年も前から言ってあることだが、未だ変わらぬ。
曲がった自分が変わらねば、曲がった守護神も変わらぬ。
曲がった者同士いつまで仲良く曲がっているつもりか?
「ごっこ遊び」が癖になり、【神】を相手にいつまで「ごっこ遊び」をするつもりであるか?
【大和魂】とは『誠』である。
『誠』が動く時【神風】となる。
『誠』無ければ『愛』は無く 『愛』無ければ『誠』無し
いつまで「改心」先延ばしにするつもりであるか?
ひふみ神示 第四巻 天つ巻 第三帖
人民同士の戦では到底かなはんなれど、いよいよとなりたら神がうつりて手柄さすのであるから、それまでに身魂みがいておいて呉れよ。
世界中が攻め寄せたと申しても、誠には勝てんのであるぞ、誠ほど結構なものないから、誠が神風であるから、臣民に誠なくなりてゐると、何んな気の毒出来るか分らんから、くどう気つけておくのざぞ、腹掃除せよ
ひふみ神示 第十一巻 松の巻 第四帖
幾ら誠申してもまことは咽喉へつかへて呑み込めぬから、誠の所へは人民なかなか集まらんなれど、今度の御用は臣民 沢山は要らんぞ。何もかも神が仕組みてゐるのざから、人民仕様とて何も出来はせんぞ、神の気概に叶はん人民は地の下になるのざぞ。神示わからねば一度捨てて見るとわかるのざぞ。
ひふみ神示 第二十四巻 黄金の巻 第十帖
もう化けては居られん。化けの世はすんだのであるから、人民ウソしてはならんぞ。嘘見分ける鏡 与へてあるぞ。早う改心なされ。
仏の取り次ぎ、キリストの取り次ぎ、天理、金光、大本の取り次ぎさん、早う改心結構ぞ。アラーの取り次ぎさん、道教も同様ぞ。人間はいつも創られつつあるものぞ。これでよいと云ふことはないぞ。ゴッドも仏も神も皆その通りざぞ。世の中も、大千世界も亦同様ぞ、つくられつつあるのぞ。愛と云ひ真と云ふも皆方便ぞ。何れも誠の現われであるぞ。はうべんの世はすみてハウベンの世となるぞ。そのハウベンの世すみて誠の世となるのぢゃ。善悪なき世となるのぢゃ。判りたか。
ひふみ神示 第二十四巻 黄金の巻 第八十三帖
光る誠の行をさしたら、皆 逃げて了ふから、ここまで甘くして引張って来たなれど、もう甘く出来んから、これからはキチリキチリと神の規則通りに行ふから、御手柄結構に、褌しめて下されよ。
この世は神の国の移しであるのに、幽界から移りて来たものの自由にせられて、今の体裁、この世は幽界同様になってゐるぞ。地は九二(クニ)のやり方せねば治まらん。早う気付いた人民から、救ひの舟を出して下されよ。これと信じたらまかせ切れよ。損もよいぞ。病気もよいぞ。怪我もよいぞ。それによって めぐり取っていただくのぞ。めぐりなくなれば日本晴れぞ。今がその借銭済しぞ。世界のめぐり大きいぞ。真理は霊、芸術は体であるぞ。正し芸術から神の理(ミチ)に入るのもよいぞ。説くのもよいぞ。芸術の行き詰りは真理がないからぞ。芸術は調和。七つの花が八つに咲くぞ
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