『砂の城』 ~虚構世界の終焉は・・・ 《癒奏術・水月抄》




とかく人は「嘘」をつく。

本当によく「嘘」をつく。

「嘘」をつくことがデフォルトとなっているのである。


自分に対して「嘘」をつくことが当たり前となり、自分に「嘘」をついているという自覚さえ無くなる。

だから多くの人が「本当の自分に還る」と言う時、大概は「欲」に走る。

「自分の本当の【欲】に還る」というわけである。

そして本当の自分の魂の望みを押し殺し、押し殺している自分を「偽り」、【欲】を全面に押し出して「自分に正直になった」とする。

だが偽りを知っている自分はそんな自分に対して、けっして「承認」することはない。

だから「誰か」の「承認」を得ようとする。

自分を完全に「騙す」ために、自分の「嘘」を誰かに「承認」してもらおうとするわけである。


なぜそんなことをするのか?

それは「厳しい真実」より「優しい嘘」に自分を置きたいからである。

自らが作り出した「嘘」という湯船に浸かっていたい・・・

そういう「欲」なのである。


それが当たり前となりすぎて、「厳しい真実」に直面すると発動される「優しい嘘」に人は逃げ込む。

そして、その「嘘」を承認してもらうことで「安心」を得ようとする。



それはスピリチュアルに限ったことでは無く、どこの世界、どこの業界でもまかり通っている「虚構」なのである。


そんな「虚構」が世界を壊す。


「真実」を知っていながら「嘘」に乗る。

それが、ほとんどの人間の「デフォルト構造」である。



「虚構」の間を渡り歩くだけの「目覚め」が蔓延っているのは、幾重にも重ねられた「虚構」のレイヤーが多すぎて、一枚二枚めくったところで足下はまだ「虚構」のレイヤーの上である。

それら全てのレイヤーを取り除かなければ、「真実の自分」にはたどり着けないのだが、ほぼ途中で挫折して「優しい嘘」へと逃げ込んで行く。

そして逃げ切るために誰かに「承認」を求める。


心の中では「嘘」とわかっている。

ただ「罪悪感」を和らげたい。

そのための「承認」なのである。

そうして「同じ嘘」を共有し始める集団が出来上がる。



そういう「虚構」の上に立っているかぎり、「目覚め」はけっして訪れない。

「虚構」のレイヤーを剥がしても剥がしても、すぐに再び生み出す。

もはや「嘘」を手放せなくなっている。

「目覚め」という「虚構」のレイヤーを生み出し、「誰でも」簡単に「目覚め」られるというレイヤーを用意してやれば、人はいとも簡単に飛びつく。

そうして「目覚め」という「夢」を見せ続けてやれば、人はその塀の中でよろしくやるのである。

見せ続けてやる魔法の言葉は・・・

「承認」である。



真実の「目覚め」へ至るには、それら全ての「虚構」を剥ぎ取る必要がある。

たとえ一枚であれ残っていたならば、岩戸は塞がり目覚めは阻害される。



【羅生門】を「虚構」を持ったまま通り抜けようとするものが居る。

だがけっして通さない。

すべて剥ぎ取らない限り、天神様へ至る細道は通れない。


「虚構」は「穢れ」そのものである。

それは目の前に広がる世界を見れば一目瞭然である。



『人の振り見て我が振り直せ』と昔の人は言ったが、人の「虚構」を見て自ら「安心」を得る人々に、我が振りを直すことなど無理である。

「虚構」というレイヤーがひび割れ崩れ始めた今となっても、人は新たな「虚構」のレイヤーを求める。

「自分は大丈夫」「自分は正しい」という確信の無いレイヤーを作り、その確信の無さを誰かの「承認」で固めようというのである。

そして、お互いがお互いを何の根拠も無くただ「認め合う」という「承認欲求」に飢えた集団が出来上がる。

「優しい虚構」の集団があちらこちらに生まれ行く。

「真実」になど耳を貸さない。

そもそもそれが「デフォルト」なのである。




たとえばワクチンにしても、打つ方も打たせる方も「虚構」に依存し、「真実」に目をつぶる自分を「騙し」、承認し合う「虚構」に身を委ねる。

それと同じ事が様々な場所、様々な業界、様々な世界に当たり前のようにある。

自分が立っている足の下は「虚構」ではないか?

「虚構」とわかってそこから降りられるか?


わかっても降りられない・・・・

だから世界は終わりへと向かうしかない。


何故なら・・・

世界は「虚構」で成り立っているから・・・である。


「虚構世界」の終焉は、そのまま「世界」の終焉

なのある。