神、幽、現 三界共和のミロクの神人 《癒奏術・華厳の章》





三界を貫く道ぞ誠なり 誠の道は一つなりけり



神人合一の理(ことわり)は 神話の中に隠れ坐します


四魂の理(ことわり) 不二(二二)の理(みち)

天地 陰陽 分かれたる御魂

天の幸魂 地の奇魂 陽の荒魂 陰の和魂

縦横十字に結ぶが直霊(なおび)


されどそれは過去のもの

荒魂と和魂 陰陽揃いて「柱」なる

真っ直ぐな陽の火の柱

螺旋に巡る陰の水柱

天地を結ぶ柱となりて 三界結ぶ宮柱成る


神・幽・現の三界の 真中に坐します直霊となりて

天地を結ぶ真ん中が 下つ岩根と成りまして

葦原之中津国と成りませる


弥勒の世界は豊葦原之瑞穂国に成りませて

神・幽・現の三界を 結んで開いて弥栄える



ひふみ神示 補巻 月光の巻 第四十三帖

そなたはまだ方便をつかってゐるが、方便の世はすんでゐるのぞ。方便の教とは横の教、いろはの教、平面の教のことぞ。仏教もキリスト教も回教もみな方便でないか、教はみな方便ぢゃ。教ではどうにもならん。ぎりぎりの世となってゐるのぞ。理(ミチ)でなくてはならん。変らぬ太道でなくてはならんぞ、【方便】の世はすんで【ほうべん】の世となり、そのほうべんの世もやがて終るぞと知らしてあろうが。理とは三界を貫く道のことぞ。字宙にみちみつ のあり方ぞ。法則ぞ。秩序ぞ。神の息吹きぞ。弥栄ぞ。喜びぞ。判りたか。





頭ばかりで体おろそか 方便だけではたどり着けぬに

理(ことわり)は理(みち) 理(みち)は道

歩いて登ってたどり着くが【理】


なぜ行かぬ? なぜ歩かぬ?

体験せねば掴めぬが理(みち) 掴めなければ行けはせぬ

裾野でいくら拝んでも 願いはいつも一方通行

自分ばかりが願いていては 神の願いなど届かない

思いを届けに登りなば 聞き届けたる神が降り来る

それが理(ことわり) それが理(みち)



神界の神と現の人が 交わる豊葦原之瑞穂国

人が昇らば神降る 神人合一 弥勒の神人




ひふみ神示 二日ん(ジシン)の巻 第十帖

地上人は、内的に生前の霊人と通じ、また死後の霊人と通ずる。地上人が、生前を知得するのは、この霊人を通ずるが故であり、死後を知得するのも、また同様に通ずるからである。生前と死後は同一線上におかれているが同一ではない。地上には、物質的形式があり、霊界には霊的形式がある。その形式は歓喜の交叉し、発する処によって自ら成るものである。形式なくしては合一なく、力なく、形式あるが故にものが総てに合一し、弥栄し、力し、大弥栄するのである。形式の中に和することは、その個々が、差別されているからである。差別し、区分せられることは、その各々に、各々が共通する内質をもつからである。共通性なきものは、差別し、区分することができない。霊界と現実界との関係はかかるものであるが故に、常に相応し、力し、力を生じ、また常に、相通じて力を生みゆく。これは、平面的頭脳では、中々に理解しがたいのであるが、この根本原理を体得、理解し得たならば、神、幽、現、三界に通じ、永遠に弥栄する大歓喜に住するのである。されば差別は、平等と合一することによって立体の差別となり、平等は差別と合一することによって立体平等となり得る。霊人が地上人と和合し、また地上人が霊人と和合し、弥栄するのは、この立体平等と立体差別との弥栄ゆるが為であることを知らねばならぬ。この二つの相反するものを統一し、常に差別しつつ平等に導き、立体していく力こそ、神そのものの力であり、歓喜である。この二つの力と神の歓喜なくしては、地上人なく、また霊人もあり得ないのである。生成発展もなく神も歓喜し得ない。この力なくしては、地上人は霊人と和し、神に和し奉ることはできない。故に、生命しないのである。





三四五結んで三五の人成り 五六七結んで三五七(弥勒)の菩薩

岩戸開けば理(みち)通じ 我が意と神意が向かい合う

我が意昇らば神意が降る 鏡の如き岩戸開け

我が意歪めば歪みが還る 善意は善意 悪意は悪意

合わせ鏡の三界共和 嬉し恐ろし世界なり