【解脱】~霊的覚醒の分かれ目 《癒奏術・水火土の章-華厳の章》





霊的覚醒の初期段階というのは、まだそこは「山の登り口」であり、山全体の「1合目」くらいのところでしかない。

それは、あの世とこの世の「瀬戸際」であり、いわゆる「低級霊」と呼ばれるもの達が「上がれず」漂う世界である。

肉体的執着が強いためにそこに残っているわけであるが、「山の登り口」とはそういう「低級霊」がウヨウヨと溢れる段階でしかない。


だが、人はその世界を垣間見た時、今までとは違う世界であるために迷う。

そしてここで人は、更に山を登る者と、そこに囚われる者とに二分する。


この「登り口」で囚われないために【解脱】というものが必要なわけであるが、この【解脱】が出来ないために「低級霊」と共に「浮遊する」一員となってしまう。



【解脱】とは【この世の執着を断ち切る】ことであり、「死後」に魂が歩んでゆく段階を「生きている時」に歩み進むことである。

それが出来なければ「瀬戸際」の世界から抜け出すことは出来ず、様々な「浮遊霊」と同じ場所で留まっている状態でしかない。

そして、様々な「浮遊霊」に翻弄され、それを【神】として自らも瀬戸際に浮遊する。

【解脱】無しに霊的覚醒すれば、「山の高み」へ昇らんとする「強い意志」がなければ、それら「浮遊霊」の誘惑を振り払うことは出来ないだろう。

この世の未練、執着が強い霊に「感応」され、自らの執着は更に膨れ上がる。

自らの心に「一致」した霊が感応するわけであるから、いとも容易く「霊懸かり」となる。

そして、長い間瀬戸際で存在し続け「力」を持った霊に「霊懸かり」されることで、ある種の力を得たりするから、それを【神】と崇める。

そうなるともはや抜け出すことは出来ないだろう。



「満たされる」「成功」「幸せ」「喜び」

このような言葉に囚われ「執着」の鎖をますます強めてゆく。

そこに「愛」や「光」などの言葉を交ぜれば、もはや抜け出すことを「辞めた」ようなもの。

瀬戸際に留まり続け「執着」の中で完結する「世界」に入ったわけである。



何故、修験者や修行者が【解脱】にこだわるのか?

それは、途中でこのような「挫折」をしないためである。




解脱とは何か?

【解脱】とは「執着」を捨てることであって「肉体」を捨てることではない。

肉体を捨てるなら「生きて修行する」意味が無くなるわけである。

あくまで「肉体」を持ったまま「霊的段階を進む」ために「執着」を捨てることである。


「執着」を捨てるということは、「執着」の「根源」を知らねばならない。

その「根源」を見つけるために「瞑想」を行ったりするのであるが、その「瞑想」も「迷走」してしまい、「妄想」に囚われ「迷想」してしまう。

「瞑想」とは「冥府」を見つめ「心を相わす」ことである。

「冥府」は自分の「魂」の在りどころであり「肉体」の存在しないところである。

そこに自ら「座」して、そこから「観想」するのである。

つまりは自分の「立ち位置」を「肉体」ではなく「魂」へと移さなければならない。

そして、魂の立ち位置に自分が「座」した時、【解脱】の状態となるのである。


魂の位置に座す自分には肉体的な執着はない。

肉体的執着は肉体の意識である。

それを脱ぎ捨てるのが【解脱】

そのため「冥府」に座すのが瞑想の座禅である。



「禅」は「神」に『角』が生えたもの

つまり「鬼」

その「鬼」の「元」へと帰依する

「魂」へ帰るということ


「帰依」は魂へ「帰り依る」こと

「魂に帰る」だけでは「死」を意味する

だから「帰依」する




【解脱】が出来れば瀬戸際の霊に惑わされることはない。

惑わされることなく「山」を登ることが出来る。

惑いは「執着」の鎖があるゆえに起こる。

そして、その「執着」が「感応」するから「霊懸かり」となる。


「霊的覚醒」にばかり囚われ【解脱】出来なければ、死んでも同じ場所に留まるのである。





ひふみ神示 五十黙示録 星座之巻 第八帖

人民一度死んで下されよ、死なねば甦られん時となったのぞ、今迄の衣をぬいで下されと申してあろう、世がかわると申してあろう、地上界の総てが変るのぞ、人民のみこのままと言うわけには参らぬ、死んで生きて下されよ、タテカヘ、タテナホシ、過去と未来と同時に来て、同じところで一先づ交じり合うのであるから、人民にはガテンゆかん、新しき世となる終りのギリギリの仕上げの様相であるぞ。



ひふみ神示 五十黙示録 至恩之巻

第十一帖

いよいよ判らんことが更に判らんことになるぞと申してあるが、ナギの命の治らす国もナミの命の治らす国も、双方からお互に逆の力が押し寄せて交わりに交わるから、いよいよ判らんことになるのであるぞ。 

第十二帖

判らんと申すのは一面しか見えぬことであるぞ、双方を見る目に、早う改心致してくれよ。この白黒まだらな時は長くつづかん、最も苦しいのは一年と半年、半年と一年であるぞ、死んでから又甦られるように死んで下されよ、マコトを心に刻みつけておりて下されよ。




【解脱】は仮想的な【死】そのものである。

ゆえに【死】を見つめねば【解脱】は知見出来ない。

【死】そのものを知ることが【解脱知見】である。

【死】から目をそらし逃げている限り、肉体意識に囚われているということ。

【冥府】とは【死の世界】そのものなのである。