現代における「食養」について 《癒奏術・華厳の章》




私が「マクロビ食」というものに関心を持ったのは、今から7~8年ほど前のことであった。

そこで「医食同源」を考えながらの日々ではあったが、なかなか毎日の食事を「医食同源」とすることは難しい。

時に思い出したように取り組みながらも、日々の慌ただしさに流され食生活は乱れる。


昔から「決まった時間」に食事を摂取するという習慣が無い私には、安定的な「医食同源の食生活」を送ることが難しいと思う。

「食べられる時に食べられる場所で食べる」ということをずっと続けてきたため、摂取するものも偏ってくる。

そういう人は世に出回っている「薬膳料理」や「マクロビ食」による「健康法」は、かえって気休めにしかならないだろう。



先日、薬膳・漢方の試験を受けてみたが、その過程で「基礎中の基礎」を改めて見直そうと思った。

そうして見直してみると、見えてくるものがある。

「昔と今では食の環境が全く違う」ということ。

数百年前、千年前、二千年前と時代を遡れば、自然環境から食の環境、人の置かれた環境というものが全く違う。



かつて「漢方」が発祥した頃は、人の食生活は現代の基準となっている「一日三食」では無かったであろうし、食べるものも「地産地消」がほとんどであっただろう。

日々の過ごし方も違えば働き方も違う。

あらゆるものが違うのである。



例えば、建物の「南面」に使う「柱」は「山の南面」に立つ木でないと弱くなるものである。

そんな「自然の理(ことわり)」が息づいていた時代と現代とでは、「理(ことわり)」そのものである「根本」のところから考えなければならない。

「地産地消」すら難しくなっている現代の食生活は、すでに「自然の理」からも大きく外れている。

そんな中、「コオロギを食べる」というおよそ「理(ことわり)」からかけ離れた事まで起こり始めている。

これらは「栄養素神話」という「カルト」が引き起こしてきた現代の「食の歪み」が、さらに歪んでしまっているということである。

そして「栄養素神話」がもたらした「摂取神話」は「摂取することを良し」とする神話となっている。

それゆえに「薬膳」や「医食同源」の料理も「摂取」することが目的化しているように思う。




昔の人に比べ現代人は「食い過ぎ」であるだろう。

しかし、「食い過ぎ」であるにもかかわらず「栄養に飢えている」という現象が起こっている。

そして、さらに「摂取」しようと「薬膳料理」や「医食」に走る。

それは、栄養素的には「栄養過多」のところに追い打ちを掛けて「栄養摂取」しているようなものであろう。

新たな「栄養素」が入って行く「隙間」はあるのだろうか?



薬膳や医食同源を考える時、様々な「前提条件」を考えなければ、いくら努力してもけっして実りは得られない。

たまたま合致して効果が現れれば儲けもの・・・・

そんな状態なのだろうと思う。




そして、そんな「食」を解決する前に解決しなければならない問題がある。

それは「人は常に飢えている」ということである。

「食」に限らず人は常に「飢え渇き」が思考の中に存在している。

お腹がすけばいつでも食べられるし、喉が渇けばいつでも飲める環境にあるというのに・・・である。

思考の中にいつも「足りない」という思いが居座り、その反動として常に「摂取」しようという欲求に支配されている。

だが、それだけ常に考えているにもかかわらず、「一体何が足りないか」を知らない。

ただただ「足りない」という思いに振り回されているばかりである。

それゆえに「飢えた霊」に感応し、お互い干渉し合いながら生きているわけである。


つまり、現代人の多くは「足し算」ばかりしか出来ない状態であるだろう。

常に「足す」ことに囚われ「満たす(実足す)」方向にばかり向く。

このような状態ではいくら良いものを「実足し」ても、けっして実りとはならない。

だから常に「飢えている」わけである。




現代人に必要なのは「まずは引き算」なのである。

もっと言えば算盤で言うところの「ご破算に願いましては・・・」である。


食べるもの自体が昔とは違う。

「栄養」も然る事ながら多くの「毒素」を現代人は摂取している。

まずはそれらを「引き算」しなければならない。

だから「ファスティング」という「断食」のようなものが流行したのであるが、そんな時でさえ「栄養素」を「摂取」しようとする。

どうしても「摂取」という「亡霊」から離れられないのである。




ある程度「健康体」と言える状態なら本当は「水と塩」の断食だけで充分だと思う。

だが現代人はそれが出来ない。

「摂取の亡霊」に取り憑かれているから「足りない恐怖」を常に抱えている。




人は「自分を大切にする」という時、ほとんどの人が「自分の生活」を大切にしようとする。

つまり「生活=自分」なのである。


「生活のために・・・・」という言い訳を人はよくする。

「生活のため」と言えば何でも許される「免罪符」のように使ったりもする。

だがしかし、その免罪符は他者に対するだけでなく、自分にも向けられている。

「生活」のために「自分」を犠牲にするのである。

だから、「生活」のために他者の犠牲も厭わなくなる。

「幸せ」と言えば「生活」を思い浮かべ、「満ち足りた状況」と言えば「満ち足りた生活」を思い浮かべ、常に中心にあるのは「生活」であって「自分」ではない。

そうやって「生活」のために人を曲げて曲げてきたがゆえに「歪んだ世界」が出来上がっているのである。


だがそれでも尚「生活」を優先するために「自分」を曲げ「他人」も厭わず曲げて行く。

だから常に「自分」は飢え渇いている。

世界は「餓鬼の群れ」で溢れている。


いったいいつになったら「自分」を中心にすえられるのであろうか?




と・・・ここから変えていかなければ「食養」は成り立たない状況なのである。

「生活」を中心に据えているために自分で自分の首を絞めて苦しんでいる。

そんな「生活苦」が蔓延している。


これを変えるには「引き算」では足りない。

「ご破算」にしなければ到底変わらない。


それを「ご破算」に出来るか否か?

それが「水瓶座冥王星」がもたらす破壊と再生。

握りしめていればいるほど苦しめられる。


「自由」とは自分を解き放つこと。

「生活」に縛り付けられた自分を解き放てるかどうか・・・である。





そんなことを基本に据えながら、現代に合った「食養」を考えていきたいと思う。

「アロマ」や「ハーブ」に続いて「食養」も『癒奏術』に取り入れていこうと思います。

にわか仕込みの「なんちゃって薬膳」にならないように出来ればと思います。


そして、「体質改善」を進めることによって『覚醒』へ至るための「肉体」へと昇華するものにしたいと思います。

「知識」や「思考」だけで『覚醒』などけっして出来ません。

「肉体」を伴わない『覚醒』は単なる『空想領域』であり、そこは「浮かんでは消えゆく粟(泡)島」でしかないのです。

肉体という「土台」も共に「次元」を上がらなければ、けっして「五次元」にはたどり着けない。

それは「肉体」という「物質」を五次元に上げると言うことでは無く、「肉体意識」を五次元に「定着」させるということです。

そんな「肉体意識」が希薄となった現代人が「肉体意識」を取り戻すには「感覚」を鍛えなければならず、鍛えるべき「感覚」を取り戻すには「肉体」を明敏な状態へと移行しなければならないわけです。


そのために「引き算」をし、最終的に「ご破算」に至れれば言うことはないでしょう。


弥勒世を生きる【神人】となるために・・・・





『人はパン(生活)のみにて生くるものにあらず』

である。