肉食による「気虚」と「獣化」 《癒奏術・華厳の章》
そもそも肉を食べると肝臓に負担が掛かる。
そして体も酸化する。
だからニンニクやレモンを一緒に食するのが西洋的な食べ方となっている。
肝を養うニンニクと、体の酸化を抑えるクエン酸を同時に摂取しておくということだ。
だがこれは西洋人の身体的特徴あっての話である。
西洋人と日本人は消化吸収の過程がまったく同じでは無い。
現代の日本に見られる肉食の状況は、あきらかに「食い過ぎ」と言っても過言では無い。
そもそも消化吸収期間が「肉食用」には出来ていない日本人が「肉食」を続けていれば、当然のように様々な不具合が出てくる。
日本中に広がるマッサージ店の数、日々増え続ける鬱症状、肌の荒れ、さらには癌患者の増加も考えられる。
普段、人の身体を施術していれば、それは手に取るようにわかる。
特に肉をたくさん食べた次の日などは、決まって「肝経(経絡)」のツボに反応が出ている。
さらには「肝臓が炎症」している人もいるくらいである。
「肝臓」は「気」を発生させる身体器官であり、ここが不具合を起こせば「気」が衰える。
しかし、牛肉を大量に食べ、ニンニクを食べていれば「血」は増え「体温」は上がる。
だから「元気になった」と錯覚する。
「元気」とは元来の「気」の発生によって「気・血・水」の巡りが「元来のもの」とならねば意味が無い。
血の巡りだけ増やして肝心の「気」が起こっていなければ、血の巡りはあるが気の巡りは無い・・・という状態となる。
だが「血」は巡る。
では、その「血の巡り」の元となる「気」はどこから来ているのか?
「肉」を単なる「物質」としてしか見ていないから見えない。
モノには全て「霊」が宿っている。
「肉」にはその動物の「霊」が宿っている。
実際に食してそれがわかる人も居る。
わからない人に言ったところで「気のせい」としか言わないだろう。
そう、「気のせい」である。
これは逆の意味であり、「気のせい」でそれに『気付かない』のである。
「気」がわかれば肉の持っている「気」がわかる。
いわゆる「肉」となった動物の「霊」の一部。
その「記憶」が残っている。
その動物の「記憶である霊の気」も一緒に摂取しているのである。
だから、肝に負担がかかり自らの気発が衰えながらも、「動物霊の記憶の気」によって血が巡る。
全身にその「気血」が巡るわけである。
敏感ならそれがわかる。
だがほとんどの人は自らの「気のせい」でそれに『気付かない』。
全身に動物の「気血」が巡れば、人の霊体は拒絶反応を示す・・・のが普通であるはずなのだが、それらは長年の習慣や常識やらで麻痺している。
麻痺して人間霊と動物霊が混ざり合った状態が続いているわけである。
だから肉食の人は「動物霊」との親和性が高い。
自らの「気」がちゃんと巡っていれば、自らの「霊体」はしっかりしたものとなるが、気虚で霊が弱ったところに獣霊が寄れば、簡単に取り憑かれてゆくことになる。
かつて山で暮らしていた民は肉を食べていた。
だが、狩りをした後必ず【神】に一度捧げて『霊』を供養し浄化していた。
しかし現代ではそんなことは行われない。
家畜として生き、死んでいった「霊」と共に、自分の身体に取り込み霊に取り込んでいる。
そして同時に「思い」も取り込んでいる。
「元気になった」という錯覚は、およそ「獣化」していることによる「気のせい」である。
それゆえ思考も獣化し、行動も獣化し、言葉も獣化してゆく。
だがけっして「野生」の獣化ではなく「家畜」の獣化であるため『畜生道』へと墜ちてゆく。
気虚が起こり「鬱」となってゆくほうがまだいい。
身体と霊が「獣化」に抵抗しているのだろう。
「霊」が獣化すればそれはやがて身体にも表れてくる。
動物霊と親和性の高くなった霊は、獣霊を呼びやすくなり懸かりやすくなる。
そんな「霊」に「霊身」共に寄ってゆく。
そして言葉の品位は下がり、行動の品位も下がる。
それが「如実に現れる」時となっているから気付く人は気付く。
「気のせい」で気付かない人は気付かない。
一目で「それ」とわかるくらいにまで「二極化」は進んでいるのだが、「二極化」という割には気付いていない人ばかりである。
「獣化」した姿や言葉や声で「二極化」を語り、「次元」を語り、「神」を語っている人がたくさん居る。
何を選択するかは好き好きであるが・・・
五感を高め、波動を高めるということは、そういうことが「わかるようになる」ということ。
自らの波動とは自らの霊の醸し出す『響き』
自らが獣化していれば、親和性の高い獣化した「響き」を良しとする。
自らが高次化していれば、親和性の高い高次化した「響き」を良しとする。
それは自分自身を「俯瞰」して眺めることが出来なければ、正しくありのままの姿は掴めない。
そして、「俯瞰」するには「獣化」を解いて「高次化」しなければ「俯瞰」の位置に立てないのである。
実際に「神」と向き合い「祓い」をする時は、食べるモノからきちんと整えなければならない。
肉食のまま「祓い」を行えば、その行為は「穢れ」を生む。
自分自身の「霊身」を「穢れ」のない状態にしてから行わなければならないのである。
それほど「霊の世界」は誤魔化しが利かない世界である。
誤魔化せば誤魔化した「穢れ」が混じるわけである。
日本人の身体は肉食にはあまり向いていない。
それは、裏を返せば「善いこと」なのである。
神々が息づき、霊との調和が取りやすいのが日本人と言える。
だがそれは、日本人であることそのものを受け入れなければ始まらない。
単に日本に住んでいるというだけでなく、身体的特徴、文化的特徴、地域的特徴、霊的特徴を踏まえた日々の行動が、日本人を「神国人」へと昇華する。
いつまでも外国の真似事をせず、自分という存在そのものに還ることである。
日本語すらまともに使えなければ、せっかくの「神の言葉」にも気付けないのである。
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