『伊邪那岐命と聖母マリア』~片親で産みし日月の神 《癒奏術・水火土の章》




『天に坐しますマリア様、今日も一日お護りください。』

このお祈りが昔通っていた幼稚園の講堂での毎日の日課であった。


聖母女学院の近くにあった付属の幼稚園には、黒服のシスター達が先生として勤めていた。

4~5歳の視点で残る記憶の風景は、その頃のこともその場所も、今も美しさを保っている。

シスター先生は恐らく普通の幼稚園などより厳しい先生であったと思う。

しょっちゅう幼稚園を脱走していた私は、頬を叩かれたことも何度かあったが、頬を叩いたシスターの潤んだ目を今でも覚えている。

私が脱走したことで、悲しみ、恐れ、怒り・・・そして無事を喜び・・・・

それらの循環が潤んだ目に溢れていた。

幼稚園の私にそんなことはわかるはずは無いが、叩かれた頬にちゃんと優しさを感じていた。


「それが愛というものなんだよ」

どこからともなく誰ともわからぬ言葉がやってくる。




イエス・キリストを「片親」で産んだ「聖母マリア」

それは、伊邪那岐命が「片親」で産んだ『三貴神』という「神の型(片)親」であるのと同じく、「メシア(救世主)の型(片)親」であるということ。


そして・・・

日ノ本に於いても「処女懐妊」して「片親」で『神』を産んだ『女神』がある。


【玉依姫】


どこの神社に赴いても『居ない』

しかし存在は常に感じていた。



『そんなところに御座しましたか』


ようやく見つけた、正真正銘の【乙姫殿】



外国は日ノ本の写し(月)国である。


写し(月)国にて【十字架】という『悲哀のメシア』を「片(型)親」で産みなさったということである。




さて、それでは『イエス・キリスト』は【賀茂別雷命】ということになるか・・・

そういえば、天に昇って「居なくなって」しまったな。


つまりは「賀茂の型を別けた神」ということになる。

いわゆる【八咫烏】


だがしかし、それは今のところ想像の域を出ない。

導きは【乙姫命】と【聖母マリア】までである。


ゆえに、この先もやはり「導き」を待ちたい。




ひふみ神示 五十黙示録 至恩(シオン)之巻 第九帖

千引岩をとざすに際して、ナミの神は夫神の治(し)らす国の人民を日に千人喰ひ殺すと申され、ナギの神は日に千五百の産屋(うぶや)を建てると申されたのであるぞ。これが日本の国の、又地上の別名であるぞ、数をよく極めて下されば判ることぞ、天は二一六、地は一四四と申してあろうが、その後ナギの神は御一人で神々をはじめ、いろいろなものを生み給ふたのであるぞ、マリヤ様が一人で生みなされたのと同じ道理、この道理をよくわきまへなされよ。此処に大きな神秘がかくされている、一神で生む限度は七乃至八である、その上に生まれおかれる神々は皆七乃至八であるが、本来は十万十全まで拡がるべきものである。或る時期迄は八方と九、十の二方に分れてそれぞれに生長し弥栄し行くのであるぞ。



ひふみ神示 アメの巻 第十五帖

四八音(ヨハネ)世に出るぞ、五十音(イソネ)の六十音(ムソネ)と現はれるぞ、用意なされよ。それまでにさっぱりかへてしもうぞ、天も変るぞ地も変るぞ。此の方等が世建直すと申して此の方等が世に出て威張るのでないぞ、世建直して世は臣民に任せて此の方等は隠居ぢゃ、隠れ身ぢゃぞ。地から世持ちて嬉し嬉しと申すこと楽しみぞ、子供よ、親の心よく汲み取りてくれよ。此の神示読まいでやれるならやりてみよれ、彼方(あちら)でこつん 此方(こちら)でくづれぢゃ、大事な仕組 早う申せば邪魔はいるし、申さいでは判らんし、何にしても素直に致すが一番の近道ざぞ、素直になれんのは小才があるからざぞ。鼻高ぢゃからざぞ。神の国は神の国のやり方あると申してあろがな、よきは取り入れ悪きは捨てて皆気付け合って神の国は神の国ぢゃぞ、金は金ぢゃ、銀は銀ぢゃぞと申してあろがな、盲ならんぞ、カイの御用もオワリの仕組も何も彼も裏表あるのざぞ、裏と表の外(ほか)に裏表あるぞ、ウオヱであるぞ、アとヤとワざぞ、三つあるから道ざぞ、神前に向って大きくキを吸ひ肚に入れて下座に向って吐き出せよ、八度繰り返せよ、神のキ頂くのざぞ、キとミとのあいの霊気頂くのざぞ。ひふみがヨハネとなり、五十連(イツラ)となりなって十二の流れとなるのざぞ、ムがウになるぞ、ンになるぞ、ヤとワとほりだして十二の流れ結構ざぞ。知らしてあろがな、是迄の考へ方やり方致すなら建替ではないぞ、何も彼も上中下すっかりと建替へるのざぞ、外国は竜宮の音秘(オトヒメ)様ぐれんと引繰り返しなさるのざぞ、竜宮の音秘(オトヒメ)様、雨の神様の御活動 激しきぞ。今度 次の大層が出て来たら愈々ざぞ。最後の十十(トドメ)(透答命)ざぞ、今度こそ猶予ならんのざぞ、キリキリであるから用意なされよ、三四月気付けよ、キきれるぞ。信心なき者ドシドシ取り替へるぞ、此の中、誠一つに清め下されよ、天明まだまだざぞ、世の元の型まだまだざぞ、神の仕組 成就せんぞ、神人共にと申してあろがな、神厳しきぞ、ぬらりくらりぬるくって厳しきぞ、と申してあろがな。役員多くなくても心揃へて胴(十)すへて居りて下されよ、神がするのであるから此の世に足場作りて居りて下されよ、神無理申さんぞと申してあろがな、けれどもちっとも気許しならんのざぞ。身魂相当に皆させてあろがな、掃除早うせよ、己の戦まだすんでゐないであろが、洗濯掃除 早う結構ぞ、此の方の神示元と判り乍ら他の教で此の道開かうとて開けはせんのざぞ、鏡曇ってゐるから曲って写るのざぞ、一人の改心ではまだまだぞ、一家揃って皆改心して手引き合ってやれよ、外国人も日本人もないのざぞ、外国々々と隔て心悪ぢゃぞ。



ひふみ神示 一八(イハ)の巻 第一帖

一八(いわ)の巻 書き知らすぞ。一八は弥栄。⦿は・と〇、⦿、🌀、が神ざぞ。🌀が神ざと申してあろう。悪の守護となれば、悪よく見えるのざぞ。人民 悪いこと好きでするのでないぞ、知らず知らずに致してゐるのであるぞ。神にも見(み)のあやまり、聞きのあやまりあるのざぞ。元の神には無いなれど、下々の神にはあるのざぞ。それで見なほし、聞きなほしと申してあるのざぞ。元の神には見直し聞きなほしはないのざぞ、スサナルの大神様 鼻の神様 かぎ直しないぞ、かぎのあやまりはないのざぞ。人民でも、かぎの間違ひないのざぞ。鼻のあやまりないのざぞ。スサナルの大神様この世の大神様ぞと申してあらうがな。間違ひの神々様、この世の罪けがれを、この神様にきせて、無理やりに北に押込めなされたのざぞ。それでこの地の上を極悪神がわれの好き候(そうろう)に持ちあらしたのざ。それで人皇の世と曇りけがして、つくりかへ、仏の世となりて、さらにまぜこぜにしてしまふて、わからんことになりて、キリストの世にいたして、さらにさらにわからぬことにいたしてしもふて、悪の仕組通りにいたしてゐるのぢゃぞ、わかりたか。釈迦もキリストも立派な神で御座るなれど、今の仏教やキリスト教は偽の仏教やキリスト教ざぞ。同じ神二つあると申してあらうがな。・なくなってゐるのざぞ、・ない🌀ざぞ、🌀でないと、まことできんのざぞ、わかりたか。・なきもの悪ざぞ、・は霊ぞ、火ぞ、一(はじめ)ざぞ。くらがりの世となってゐるのも、・ないからざぞ。この道理わかるであらうがな。