【金鵄】~指導者の指導者 《癒奏術・水火土の章》




『神武天皇』の道先案内をしたという【金鵄(きんし)】


熊野で道案内をした『八咫烏』

瀬戸内の吉備小島あたりで航路を案内した『椎根津彦(またの名を珍彦)』


これらは同じである。



【賀茂建角身命】

または【八重事代主】


『国譲り』という名分のもと、『蔭(青垣)』に隠れて守護をする。

そして『片(型)親』にて新たな【神】を産んだ。

【神武】という名の神である。


そして、【金鵄(きんし)】の指導の下、国譲りの大義は整い新しい【神】が産まれ、新しい【大和】が産まれた。


指導者を指導する【金鵄(きんし)】



『神産み』は『玉依姫』が産んだ『賀茂別雷大神』を『授かる』

つまり「賀茂(神)」を「別ち」「神成り」するのである。

そうして【神】と「成った」【神武天皇】


以後、今に至る「百二十六代」まで「同じ型」で続いているだろう。




その「写し」としての『イエス』と『マリア』

だが、『イエス』の死と共に【結び(十)の型】だけを残した。

いわゆる・(中身)の無い〇(器)だけの【結び(十)の型】である。


大切な中身は「石棺」に治められ受け継がれていった。

「石棺」とは「イシヤ」

「メシヤ」の亡骸を詰めた「イシヤ」といったところだろう。


だが、大切な「神器」を失った。

戒律(規律)を失い、マナの壺(神意)を失い、アロンの杖(柱)を失った。

「神器」と『人』である。

人が「規律」を失い、「神の意」を失い、自らの「柱」を失った。



それは日本に於いても同じである。

日月の二つの鏡が本来の姿であるが、八咫鏡は一つしか無く、八尺瓊勾玉は曇り、曇りを祓うはずの「天叢雲剣(草薙剣)」はお家騒動の果てに失った。

日月の鏡は自らの魂(日)と心(月)を移す鏡であり、魂を移す「日の鏡」を失い、本来「真澄の玉」である勾玉は曇り、自らを浄める「剣」が無いため心は汚れ穢れで溢れる。



・・・・・


今までの導きのたびにしょっちゅう「事代主神」が現れていた事情というものだろう。





五十黙示録 碧玉之巻 第十帖

岩戸しめの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ、総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまってゐるのであるぞ。一ヒネリしてあるのぢゃ、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ。夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸がしめられたのである道理、判るであろうがな。その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄もないことであろう、妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国の総てを生み育て給ふたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、千引の岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。同じ名の神が到るところに現はれて来るのざぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、この二つがそろうて、三つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな。時来たりなば この千引の岩戸を倶にひらかんと申してあろうがな。次の岩戸しめは天照大神の時ぞ、大神はまだ岩戸の中にましますのぞ、ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、揃ふてお出まし近うなって来たぞ。次の岩戸しめは素盞鳴命に総ての罪をきせてネの国に追ひやった時であるぞ、素盞鳴命は天下(あめがした)を治しめす御役(おんやく)の神であるぞ。天ヶ下(あめがした)は重きもののつもりて固まりたものであるからツミと見へるのであって、よろづの天の神々が積もる(と言ふ)ツミ(積)をよく理解せずして罪神と誤って了ったので、これが正しく岩戸しめであったぞ、命(みこと)をアラブル神なりと申して伝へてゐるなれど、アラブル神とは粗暴な神ではないぞ、あばれ廻り、こわし廻る神ではないぞ、アラフル(現生る)神であるぞ、天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるぞ、取違ひしてゐて申しわけあるまいがな。このことよく理解出来ねば、今度の大峠は越せんぞ。絶対の御力を発揮し給ふ、ナギ、ナミ両神が、天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神であるぞ。素盞鳴の命にも二通りあるぞ、一神で生み給へる御神と、夫婦呼吸を合せて生み給へる御神と二通りあるぞ、間違へてはならんことぞ。神武天皇の岩戸しめは、御自ら人皇を名乗り給ふより他に道なき迄の御働きをなされたからであるぞ。神の世から人の世への移り変りの事柄を、一応、岩戸にかくして神ヤマトイハレ彦命として、人皇として立たれたのであるから、大きな岩戸しめの一つであるぞ。仏教の渡来までは、わずかながらもマコトの神道の光がさしてゐたのであるなれど、仏教と共に仏魔わたり来て完全に岩戸がしめられて、クラヤミの世となったのであるぞ、その後はもう乱れほうだい、やりほうだいの世となったのであるぞ、これが五度目の大き岩戸しめであるぞ。