『思いの手』~重なる五次元世界の【癒奏術】




先日試験を受けた「薬膳・漢方検定」の合格通知が来ていたので、ようやくこれで「食」に関して話をしても、ただの戯れ言にはならないだろう・・・と思う。

そんなに専門的な奥深い認定ではないが、イメージというものも大切であるだろう。




私はほとんど病院に行かない。

過去に三度、怪我(事故)のため救急車で運ばれて行った以外、自ら足を運んだ記憶はほとんど無い。

そして、三度の救急車のうち二度は入院して手術を受けた。

が・・・・どちらも医療的にミスをされている。

一度目はヘタをすると右の手首から先が無くなっていたかもしれず、二度目は右足が無くなっていたかもしれない・・・というミスである。

だから尚更病院嫌いなわけである。


そんなわけで施術の道に進んだのであるが、同時に「メディカルハーブ」と「アロマテラピー」も資格を得て、そして今回「薬膳・漢方」もプラスしたわけである。



施術もそうであるが、ハーブもアロマも薬膳も基本となるのは「帰結点」である。

最終的に「どこへ帰結するか」という「着地点」が非常に大切で、その着地点も明確でなければ意味が無い。

そして、その着地点(帰結点)にたどり着くための「道のり」が、施術でありハーブでありアロマであり薬膳であるということ。

そして、その「道のり」は人それぞれ千差万別である。

であるが、「人」である以上「共通」する部分があり、そして個々が有する「相違」する部分がある。

そしてもう一つは「心と身体」両方にアプローチしなければ『意味が無い』ということ。

身体に対する「効能」だけでは実は意味が無い。

心が「受け入れ」なければ「効能」は「届かない」のである。

これは非常に単純な原理であるが、なぜか見落とされてしまう。


何故見落とされるかと言うと、「効能」による「即効性」をすぐに人は求めたがるからである。

アロマでもハーブでも「日常」に浸透させることで「予防」や「回復効果」を見込むものであるが、現代医療の魔法にかかった人は「即効性」を求めたがる。

実際、身体が「即効」で治癒することなどあり得ないのであるが、例えば「頭痛薬」を飲んで頭痛が治まったら「治った」と勘違いする。

実際は頭痛の「起因」は治癒してはいないが「痛み」は麻痺して治まっている。

そんなものを求めているのである。


それを求めるのであれば病院に行けば良い。

アロマもハーブも薬膳も施術も必要無い。

心が求めていないものは必要無いのである。


だが、アロマをブレンドする人も、薬膳料理を作る人も、そんな人のニーズに答えようとする。

だからさして効きもしないものが出来上がってしまうのである。


アロマやハーブや薬膳で「効果」を求めるなら、日常的に「続けられる」ものでなければならない。

ハーブスパイスやハーブティーは「美味しく」なければ意味は無く、アロマのブレンドは「香り」が良くなければならず、薬膳も「美味しい」と思えなければ意味が無い。

施術も同様、その人が「心地良い」と感じなければ意味が無いのである。


ただ、美味しいと感じたり、心地良いと感じたり、良い香りと感じるものには個人差がある。

しかし「共通」するところもある・・・ということだ。




論理だけ言ってもわかりにくいので、アロマのブレンドで説明しよう。


私のアロマブレンドは「二層構造」になっている。

その基本となる「一層目」は「Re:Quiem零」というブレンドで、心をフラットにするためのブレンドである。

つまりは「飛び出した心の尖り」をなだめてまろやかにする・・・といったところだ。

いったん心を「フラット」にしてからスタートする。

そして「二層目」が「活きてくる」ことになる。

例えば、風邪を引いて熱を出した場合、まず熱を冷ましてから滋養を与えるのと同じようなものである。


私のブレンドに「Re:Quiem咲弥」というものがある。

これは、「強迫性障害」のある人のために作ったブレンドであるが、現代人は多かれ少なかれ社会や世界といった外界との関わりに、ある種の「強迫観念」を持っている。

だから特に「障害」が無くとも「香りに惹かれる」ようになるわけである。

この「咲弥」のブレンドには心を温めて「力」を取り戻すためのブレンドを「二層目」で演出している。

一層目で「恐れ」をなだめ、二層目で元気づける・・・というものだ。


だが、これも「良い香り」と思えなければ意味が無い。

無理に「元気づける」アロマが際立てば、拒絶感が生まれる。

それが人の心というもの。

だから「元気づける」アロマの香りは「甘い」香りに隠され、優しさ、温かさに抱かれながら徐々に「勇気づけられていく」という構造である。

常にメインとなるのは「優しさ」と「温もり」である。

これを間違えて「元気づける」香りが主張し過ぎれば、落ち込んでいる時にやたらと元気づけられるのと同様「嫌気」が差す。


アロマの香りは「言葉」と同様なのである。

どのような相手にどのような言葉を掛けるか・・・・

ブレンドにはそれが問われる。




ハーブにしても薬膳にしても同様である。

ただ「効能」という「理屈」を言うだけなら誰にでも出来る。

だが、「効能」という「言葉」と「思い」をしっかりと届かせ響かせるには、やはり思いやりと真心が大切であろう。


それがアロマやハーブのブレンドにあるのか?

薬膳の料理にあるのか?


ということである。

施術もまた然り。



アロマのブレンドもハーブのブレンドティーも薬膳料理も、ちまたに数あれど「良い」と思えるものはなかなか無いものである。

「販売」が目的であるからやむを得ないのであろう。

私のように作るのを面倒がって、あまり「売らない」人とは違うだろうから。

ただ、「必要」であれば私の心も「創作モード」が湧いてくる。

やはり「心が動かない」ものは創作してもけっして良いものは出来ない。

ある意味「芸術」なのである。


日本料理が美しく味わい深いのは、その奥に「心」があり、「心」相当の「手間」がかけられている。

精進料理などは本気で取り組めば本当に「美味しい」ものが出来る。

そして、ヘタな薬膳料理などよりも、よほど心と身体にとって良いものであろう。

手間暇を惜しんで効能重視をした料理と、手間暇を惜しまず作ったシンプルな一品では、その食の薬効は当然後者のほうが良い。

アロマも同じく、ヘタなブレンドをするくらいなら単体のアロマの香りのほうが良いのである。


施術にしても、半端なことをするくらいなら、最愛の人にただ「撫でて」もらっている方がよほどいいだろう。

だから、施術をする際には、「それを越える」ものを提供しなければ・・・と常々思っている。



そうやって「心」と「身体」に響けば、「魂」へとその響きは伝わる。

それが人の「霊体」に届くために必要不可欠なことである。

「霊」は「思い」の現れである。

魂の思い、身体の思いが「心」で融和して形作られているのである。

思いで形作られたものに手が触れ得るのは、同じく「思い」で形作られた「手」である。

だから「最愛の人に撫でて」もらうことが良いのである。

そして、施術者も「思い」が「思いの手」となり「思いの身体」に触れているということを忘れてはならない。


料理も同じであり、アロマもハーブも何ら変わるところは無い。

「良い思い」は「薬」なのである。

そして、「悪い思い」は「毒」なのである。

それは、五次元世界では『当たり前』のことなのである。