癒奏術としての薬膳・食養 《癒奏術・華厳の章》




無農薬でオーガニックな食材を使い日々の食事をすることが、健康のためには一番良いのは当然のことである。

良いものを摂れればそれに越したことはない。

だから良い食材を選びましょう・・・などというつまらないことを言うつもりはありません。


厳選された良い食材というものが、市場にどれほどあるのか?

全ての人の日常を維持するだけの量はあるのか?


当然、あるわけが無い。


遺伝子組み換えは常套化し、表示義務すらされなくなる。

農薬量は増え、そういったものがごく当たり前に市場に出ており、ほとんどの人がそういった食材で日々を過ごしている。


良いものを作り食べるという意識が広がるのは良いことであるが、現実は真逆に進行しているのである。

その結果、病気が増え不調が常套化した世界となっていっている。

私の若い頃はマッサージなどするという概念も存在しなかったし、当然それを提供する人の数も少なかった。

だが、今は十代の子達にも施術が必要だったりする。

それほど昔に比べて世界は鬱屈しているのである。

子供達が哀れなほどに・・・・


この先、もっと食物の中の『毒』は増え続けるだろう。

水も同じく汚れが進行している。

そんな『毒』だらけの中で「オーガニック」という数に限りのあるものは、やがて取り合いになることだろう。

そんな『奪い合い』の未来しか見えない。



そんな『毒』だらけの世界の中で、いかに健康を保てるのか?

ただ身体の健康だけでなく、精神の健康も連動しているのである。


身体の感覚を「麻痺」させてやり過ごすという「対処療法的」な考え方が横行しているせいで、このような『毒』が進行するだけ進行してしまった。

そしてさらに突き進む。


さて、どうするか?


『毒』を喰らいながらいかに生きるかという未来を迎え撃つために、薬膳や漢方をもっと知る必要があると思った次第である。

綺麗な水、安全な食材、健全な環境に満ちていれば、医療も癒しもそもそも必要無いものである。

しかし、それが無い。

そして更に失われて行く。


『毒』を喰らうことで身体は害され、思考も害され精神面でも下降して行く。

身体だけ見ていれば、思考や精神性が蝕まれていることに気付かない。

人は幼児退行している世界が現出していることに気付けず、思考の幅は狭まり、感覚は衰えるばかりである。

せっかくの天王星の恩恵も感じ取ることが出来ずに居る。


どこか安全な場所に逃げて・・・などという場所はない。

同じ世界の巡りの中にいるのである。

自分だけ都合の良い世界へ行こうなどと言うのは悪魔のささやき以外の何物でもないだろう。



そんな『毒』だらけの世界でいかに『毒』を浄化できるかが問われる。

施術で出来ることに限りはある。

エネルギーの浄化で出来ることにも限りがある。

アロマで出来ることも限りがあり、ハーブで出来ることも限りがある。

食事で改善できるものにも限りがある。

けっして『特効薬』など無い。



日々身体に足される『毒』が相手である。

それらの『毒』といかに向き合うか・・・・

そんなことを自分の身体に聞きながら『誰もが可能なこと』を探っている。

限りあるものを取り合うのではなく、『毒』を喰らいながら『毒』と対峙して『退治』出来る道を探るため、自分の身体に入った『毒』と対峙して試行錯誤を繰り返しながら答えとなるものを探している。

足したり引いたり、やり直したり・・・・

試行錯誤である。


限られた者だけではなく、『誰もが』恩恵を受けられる必要があるのである。



世間に出回っている情報も多くの嘘が混じっている。

今まで正当とされてきたものほどいかがわしい情報であったりする。

では何を信頼するのか?

当然、自分である。

自分の感覚である。

それこそが唯一の『真実』なのである。





ひふみ神示 五十黙示録 五葉之巻 第七帖 

昨日は昨日、今日は今日の風、昨日に囚われるなよ、人民の道は定まってゐるなれど、目の前だけしか見えんから踏み迷ふのであるぞ。薬飲んで毒死せんように致しくれよ、薬は毒、毒は薬ぢゃ、大峠にも登りと下りとあるぞ、馬鹿正直ならん、頭の体操、ヘソの体操大切ぞ。