【渦の身体】~重なる三五(みいづ・瑞厳)の次元の身体を癒やす 《癒奏術・華厳の章》



人の体はけっして「左右対称」にはならない。 

いや、この世のすべてのものは左右対称ではないのである。

どんなに形が左右同じに見えようとも・・・である。 



「左右対称」というのは2次元的な思考の産物である。 

天秤やヤジロベエのようにバランスをとるということは、2次元的な思考の中だけのものであり、そこには「生命」の息吹はない。 

 


人の体を左右対称にバランスをとることなど不可能なのである。 

それは「活動」しているからに他ならない。

天秤やヤジロベエのように「静止」してはいないのである。



「活動」とは「流れ」であり、「流れ」によってエネルギーが発生し、それが「動き」となる。

地球も活動しているわけであり、どこで半分にしても常に左右対称などというものは存在しない。




たとえば、文字は常に左から右へ流れる。 

これはこの三次元の「流れ」のあり方である。 

左から始まり右に帰結する。

左右対称の文字であってもエネルギーの流れは左から右である。


それは、文字を書く人のエネルギーも同じで、左側から右側へと流れ行く姿の現れ。

そしてそれは地球の回転に通ずる。

三次元において姿あるものすべてこのあり方なのである。



人の体は左側からエネルギーは右へと流れる。 

だから右手で文字を書くほうがいいわけである。 

文字にエネルギーが「乗る」からである。 




例えば、施術をするときも同じく、必ず左側から行う。 

左側への癒しは右側へと流れるため、左側への施術効果が右側へと自然に「映る」わけである。 

実際に左を先にほぐせば右も緩んでいる。 

逆に右を先にほぐしても左は緩まない。 


だがこれはまだ二次元的である。 

一方向から平面的に見た視点でしかない。

実際のエネルギーの流れは「円」であり「渦」なのである。


この螺旋のエネルギーの流れを捉えるには、「対象」の左右ではなく「自身」の立ち位置が大切になってくる。



だがそのその前に渦について・・・・


さらに、「渦」は2つある。 

上からの渦と下からの渦。 

回る向きが逆なのである。 

それは「地軸のエネルギー」と「地球の回転」のエネルギーの方向性そのものである。



人の身体も同じ。

軸のエネルギーと身体のエネルギーの両方の「渦」がある。

エネルギーを捉えるとき、この「上からの渦」と「下からの渦」のどちらなのかはっきりと認識しなければならない。 

そして、身体に影響を与えている「渦」はどちらの渦か? ということである。 



また、その2つの渦はいわゆる「火(厳)」と「水(瑞)」である。 

火の渦があって水の渦が立ち上がる。 

言い換えるなら「魂魄」といったところか・・・ 

火の渦を魂、水の渦を魄 

この2つの渦がしっかりと結ばれた形とは、『火の渦の周りを水の渦が取り囲んでいる』状態である。 


火の渦が柱(軸)

その柱を登るのが水の渦(身体)

それが「渦の結び(魂魄の結び)」の型である。 



これが岩戸開けてよく分かるようになった『イザナギ』と『イザナミ』の結び。 

つまり意識(火)を向けると起こる『イザナギ』の渦に反応し『イザナミ』の渦が立ち上がる。 

だから対象ではなく「自身の視点」に由来する。 

意識を向けることで「渦が起きる」のである。



だがそれは対象の基本的な渦の向きが変わるということではない。 

言うなれば「関わりの渦」とでも言おうか。 

関わることで生まれる流れである。 


あるべき基本の流れ(渦)があり、「関わり」によってその流れの乱れが起こり不調を生む。

エネルギーの流れが身体の活動である限り、その流れの乱れは活動の乱れを生む。 

活動の乱れが負荷となり、負荷となった部分に不具合が現れる。 



行動の前には常に意識がある。 

「イザナギ(意識)」があって「イザナミ(活動)」を起こす。 

だがそこに「別の意識(イザナギ)」が関わり別の渦が起こり、「イザナミ(活動)」が狂う。 

ここに『調和』するものと『不調和』を起こすものとがある。 


例えば、人の行動を制限しようとする意識は、人の渦の流れを乱すのである。 

人のありのままを認め関わるものは、けっして渦を乱さないのである。 

実は『直そう』という意識は不調和を生むのである。 

どんなに良いと思える高尚な思いも、相手を『変えよう』とすれば不調和を生んで渦の流れが乱れるのである。 


だから私はいつも『無心なれ』と言う。 


そして相手の流れに乗るのである。 

だから流れの滞った淀みにただ『たどり着く』わけである。

自分の思う通りに人が動かないと気がすまないような人が向ける意識は、それだけで渦の流れが乱れて気持ち悪いのである。

「直そう」という『我』は「別の渦」を起こしてしまうため、流れを乱すだけなのである。


大切なのは「立ち位置」

それは物質的な「場」でもあれば思考の中の「視点」でもある。

もっと言うなれば「観点」であろう。

「意識」とは「火」であり「厳」である。

それは「観音」の「観」なわけである。

「観」は「軸」であり「イザナギ」である。

つまりは「意識」の位置が大切なのである。

意識の位置とは自分の「思いの在り方」。

善の押し売りは調和を乱す悪であり、悪に寄り添い善へと転化する流れへと還すのが善なる癒しである。

悪を排除しても流れが改善しなければ再び悪となる。

癒しも祓いも浄化も同じ。




五次元が重なった今、それは顕著に起こる現象となっている。 


「心地よい」場所とそうでない場所はいわばエネルギーの流れそのもの。

快楽を追うことや欲を叶えることが「心地よさ」ではなく、エネルギーが不調和を起こさない「場」が「心地よい場所」なのである。

そして、それこそが五次元の在り方。

エネルギーで分かれ行く世界である。



そんな五次元のエネルギーを感じ取るものと感じられないもの。

それが二線に分かれた今の世界。

今は「まだら」な状態ではあるが、やがて淘汰されて行く。