『思考の順序』~神惟(かんながら)の道 《癒奏術・華厳の章》
ちょうどGoogleマップで場所を特定して位置を把握する際に、地球全体像からピンポイントの位置へ至るか、ピンポイントの位置から地球全体像へ至るかという二通りの「順序」がある。
人の思考にもこのように「思考の順序」というものが存在する。
それらは概ね【言葉(言語)】にかかわる。
多くの外国語と日本語はこの「順序」が逆になっている。
始まりの位置と終わりの位置が「逆さま」なのである。
それゆえに「思考の順序」が逆になる。
思考の順序が逆になると言うことは、「主体」とするもの自体も「逆転」する。
全てが・・・というわけではないが、概ね逆転する。
しかし、日本語を使っているはずの日本人が、なぜか外国人と同じような「思考の順序」に陥って久しい。
この「思考の順序」は自己の「視点」「立ち位置」を示している。
そして、常に何を「主」とするか?
それが如実に表れる。
考えに表れ、話す言葉に表れ、行動に表れ、結果に表れる。
本来、日本人が持っていた「因果律」は、長い時間をかけて「逆転」させられている。
始点である「因」と終点である「果」の「因果律」がひっくり返っている・・・ということ。
それは「主」とするものが「逆転」していることに他ならない。
霊主体従であった日本人の思考は、数千年の時を経て体主霊従へと逆転した。
日本語を素直に使っていれば、そこに「霊主体従」の順序はあるのだが、その「流れ」に逆らうように思考を展開する。
だが、逆らっていることに気付かない。
まさか「思考の順序」など気にも止めないだろう。
「思考の順序」「言語の順序」に何の意味があるのかさえわからないだろう。
だがそこに大いなる「仕組み」が存在する。
日本人が「日本人」と言えるためには、この「順序」が大切なのである。
この「順序」を間違えているから、いくら頑張っても魂にたどり着かない。
【神】へと届く道のりのはるか手前で「横道」へと逸れて行く。
【神】を思う時、【魂】を思う時、「主体」となるものが天地逆さまなのである。
「因果律」が逆転しているのである。
だから【神】を「引き寄せ」ようとし、【魂】を「引き寄せ」ようとする。
神人合一とは【神惟(かんながら)】であり【惟神(かみながら)】である。
【神惟(かんながら)】とは「神意即思惟」であり、【惟神(かみながら)】とは「思惟即神意」である。
【神惟(かんながら)】【惟神(かみながら)】【神救(かむながら)】【神添(かめながら)】【神照(かもながら)】
「神の救済」という【神救(かむながら)】は万物平等に与えられる【神意(カムイ)】
「神に寄り添う」【神添(かめながら)】は「神の御子」であり「巫女」である。
『亀(カメ)』は『神添(かめながら)』としての表れである。
「神を照らし明らめる」のが【神照(かもながら)】であり、神を確と見ることである。
しかし、【国譲り】以来【神照(かもながら)】なのである。
岩戸が塞がり【神惟(かんながら)】が途切れ、【惟神(かみながら)】も途切れ、【神救(かむながら)】を受け取れず、【神添(かめながら)】さえも途絶えた。
ゆえに「神を照らして見る」しかなく、【神添(かめながら)】は『神の御子』から『巫女』へと転化し『神を照らす』ための道具となった。
そうして『神意(カムイ)』を受け取ろうとし、【惟神(かみながら)】であろうとしてきたのである。
【神照(かもながら)】とは神を『鏡』に映して明らめる。
日の光を映す『月』
【月読命】の御支配であり、「バラモン(婆羅門)」の在り方。
密教であり陰陽道でありヨーガであり・・・
ゆえに【賀茂(かも)】である。
「婆羅門」は波女(伊邪那美)の門。
それは「地引の岩戸」を通る術(すべ)である。
岩戸を開いて鏡に神を「映す」術である。
国譲り以来日本は「月の国」である。
事代主による【神照(かもながら)】の始まりである「国譲り」
以来、神を照らし続け(鏡に映し続け)てきた。
だがそれは本来『逆さ』である。
【神照(かもながら)】から【惟神(かみながら)】へ至ろうとする道。
それは日本以外の国に対しての『教え』としての【月読命】の『教え』である。
『婆羅門(バラモン)』であり『四八音(ヨハネ)』である『教えの型』。
日本人には本来「必要の無い」ものであるが、天地逆さま、因果律が逆さまとなった日本人の幽界(がいこく)御魂の『カルマ』である。
【神惟(かんながら)】から【神照(かもながら)】へ至るのか、【神照(かもながら)】から【惟神(かみながら)】へ至るのか・・・
天地逆さの「逆立ち」に気付かない限り【神惟(かんながら)】の【神人和合】は無理なのである。
鏡に映した「月明かり」を追いかけている限り、けっして太陽にはたどり着けない。
『月明かり』があるそこは、常に『夜』なのである。
0コメント