物に宿る霊 《癒奏術・華厳の章》
霊とは何であるか?
霊とは『資質』である。
『資質』とは「性質」であり「性格」であり「資産」であり「資格」でもある。
その『資質』とは『思い』でもある。
『思いの色』とでも言おうか。
この世のすべてのものには霊が宿る。
無機質な「物」には元来無機質な霊が宿っている。
されど『思い』によって『霊の資質』は変化する。
同じ『物』であっても、所有する人が違えば物に宿る『霊の資質』は違う『色』となる。
その『物』に対する『思い』が『物の霊』の色を染める。
思いが強ければ強いほど、物の霊の『色』は濃くなり、『霊としての影響力』は増す。
影響力が増すというのは、物の霊に人の霊が「感化」されるということである。
例えば、古いもので長年『強い思い』を受け続けてきた物は、容易に人に感化するのである。
例えを『物』にしたが、それは『人』でも全く同じこと。
常なる『思い』が『霊の資質』となる。
それは「性格」となり「資格」となってゆく。
今までの世界は『物』と『霊』の距離が遠かったため、『霊』である『資質』が見えにくかったが、岩戸が開けてその距離が縮んで重なり始めたため、例の資質が物を覆っているのが如実にわかる世界となっている。
『九分九分九厘の霊懸り』とは『霊の資質』に因るのである。
それは『自分』という『資質』を『自分』という『身体』に対して『偽る』という行為をし続けたため、その者の『霊』は『偽る』という『資質』を宿す。
どのように偽るのか?
それは、『人目』の『見栄え良く』するために自らを偽る。
その行為は自らの霊の資質を『他者に感化』することで『彩(いろどり)』を変えようとする・・・ということである。
自分の『思い』ではなく他者の『思い』に自らの『霊』を染めるということ。
それはその者の『霊の資質』が『常に自分を譲る』という資質に外ならず、ゆえに『霊懸り』を自ら望む『霊の資質』なのである。
自らを『自分の思いの色』に染めることを厭い、『他者の思い』に自らを染めようとする。
だから簡単に『霊懸り』となる。
よいか。
人の身体も『物』に外ならない。
命とは「この世の命」を借り受けているのである。
魂が命ある体という物を借り受けているのである。
その魂がせっかく借り受けた体に対して自らの『彩』を放棄しているのである。
そして、放棄された体は常に「何者か」の『思い』で彩られる。
よいか。
誠の人とは自らの『魂』でその身を彩っている者のことである。
自らの魂の彩を放棄した者はすでに『物』と同じ。
だから人は『物』によって自らを彩ろうとする。
飽くなき所有欲は『魂の彩』を無くした者が、『物の霊』によって自らを『彩る』ための『霊懸り』を「自ら」行おうとする行為なのである。
人がその物に対して寄せる『思いの色』を纏うことで、自らの『霊』を感化させて『自らの霊の彩り』を『変えようと』するということである。
だが、いくら『物』によって彩を変えようとしても、根本にある『魂の資質』までは変わらない。
十二単(じゅうにひとえ)のように多くの彩を纏っても、それを着ている実体までは変えられないのである。
自らの『彩』を無くした魂は、灰色の身に色とりどりのものを纏っているだけに過ぎない。
例えば、「王」は「王」とされる『物』を纏うことで「王」となる。
魂の彩りは無くとも「纏う」ことで「霊」を感化させ「王」となる。
そのような世界が幾千年と続いてきた。
「神器」にこだわるのはそのためである。
「神器」の『霊』を纏うためである。
だがそれはもはや許されぬ。
纏ったところで「魂の彩」は隠せぬ。
それらが『見える』世界となっているのである。
伊邪那岐命の「片親(型親)」の世は終わりである。
岩戸は開けて伊邪那岐命と伊邪那美命はめぐり逢い、両親の世となっているのである。
見えるのに見ようとしない「霊懸り」たち。
纏うことで誤魔化せると思っているから見えないのである。
魂に還るということは、自らの『魂の彩』が『霊の資質』となることである。
そして、その霊が宿る『身体』となることである。
【霊身一致】するとはそういうことである。
さらに、【神人一致】は『神を纏う』ことではない。
自らの魂の里親である【神の彩】となることである。
灰色の霊身にいくら纏ったところで、灰色は灰色のままである。
そこに【神】は居ない。
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