水澄真瑠の御魂 《癒奏術・華厳の章》
未来のために『今』を『犠牲』にする生き方に慣れた人々は、常に『未来のため』という綺麗ごとの名のもとに、『今』という目の前の『幸せ』を捨ててゆく。
10年先を見据えて生きるものは、10年後、やはり同じく「10年先」を見据えて『今』を捨てる。
老後に備えて生きるものは、老後になって何を頼りにするのだろうか?
『今』を生きることを忘れたものが、老後になってどうして『老後』である『今』を生きれるのか?
未来にツケを回さないためにといいながら、常に『今』を捨ててゆく人々・・・
計画性のない『お題目』を『計画性』と呼び、将来設計などと呼び、未来を見通しているなどと言いながら、見通していたはずの『未来』に来たにもかかわらず、相も変わらず不安と恐れを抱き続けて、恐れから逃れるために『未来』という『現実逃避』を行い続ける。
「この先どうなる?」
「明日はどうなる?」
答えの無いものばかりを追い求め、今目の前にある現実を捨ててゆく。
幸せになりたい思いを叶えられないその手は、常に『未来』という「空」を切る。
『今』という現実にしか届かないその手は、常に『未来』という「虚空」を彷徨う。
『嘘』に満ちたこの世界
大手を振って『嘘』がまかり通る。
何故か?
では、本心のまま生きている者がどれだけいるのか?
自分自身は常に偽りの自分を人目に映し、見てほしい自分を演じ、空気を読んで自分を偽りながら、「世界は嘘に満ちている」という不平不満は「天に唾をする」のと同じことである。
嘘に満ちた人々が創る世界は、嘘に満ちているのは当然のこと。
九分九厘の不正直者が創る世界は、九分九厘が嘘となる。
嘘つきが嘘つきを責めたてても、嘘つきに言い返されるだけである。
自分の中の『嘘』という名の穢れが世界を満たしているだけである。
『嘘』が当たり前の世界で、自分の『嘘』は同化する。
自分の本心に『正直』に生きれば、周りと比べて『異質』なものとなることがわかっている。
だから『正直』に生きられない。
そうして自分の『嘘』を許す。
だから他人の『嘘』も許す。
そうして『嘘』を『許しあう』世界は、『嘘』で出来上がる。
『嘘』に同化した心地よさの中から抜け出せない。
自分だけ『異質』となることなどできない。
マスクを着けて、注射を打ってでも『同化』し行く。
自分の手は『幸せ』を掴むために一切使わない。
『恐れ』から逃れるために使うだけ。
だからその手は『幸せ』を握ることはない。
常に手の中に『恐れ』を握りしめている。
『恐れ』を握りしめ『幸せ』を手放したその手では、誰も『幸せ』になど出来ない。
その手で触れられれば『恐れ』の響きが伝播する。
『嘘』という穢れを纏い、『恐れ』という穢れを握りしめ、魂に偽りの『衣(ころも)』を重ねて彩れど、そこに魂の輝きはない。
一切の衣を脱ぎ捨てた自らの魂を誇れないなら、そこに『尊(みこと)』は顕現しない。
『嘘』の【神】の衣装を着せて、【神】を偽る者どもは、『嘘』に満ちた世界の産物。
それ(嘘)が未だに「当たり前」となっている世界の姿である。
この世のみならずあの世でも、未だ偽る者どもが、あの世の『嘘』をこの世に感染(うつ)す。
それすら見抜けぬ大和魂を無くした幽界(がいこく)魂たち。
自らの内にある『偽り』の穢れが、『偽りの神』と同化するため見抜けない。
この世の『嘘』と同化する魂は、あの世の『嘘』とも同化する。
九分九分九厘の『神懸かり』は『嘘』の『神懸かり』。
『誠の神』ではなく『嘘の神』に懸かられた『霊懸かり』である。
「嘘との同化」を旨とする『道化』の言葉を発し続ける。
自らの御魂を磨けばすぐにわかるものを、磨かぬからわからない。
『嘘の衣』を着ることが当たり前となっているからわからない。
「同化」を「調和」と勘違いしているからわからない。
自らの御魂を磨けば、おのずと『鏡』となる。
『偽り』の【穢れ】を祓うが御魂磨き。
磨かれた御魂が大和魂。
【神】の丹塗り矢の「的(まと)」となり「神人和合」す。
【神】の「山」の「戸」を開く。
【神山】から流れ来る【丹塗り矢】は、頭(あ)と尾(お)を結ぶ天地の意(い)。
『神照(かもながら)』から『惟神(かんながら)』へ至る岩戸開き。
「葵祭」の【玉依姫】は、『神人和合』の「処女懐妊」。
誠の神人の在り方。
玉依姫たる聖母真理亜(マリア)
神(あ)の真理を具現した真の【神人】の姿なり。
神は亜 亜は十字
 ̄(天)_(地)の間の結び(十)の亜(あ)
天地の間が清かざれば 神の丹塗り矢は流れ来たらぬ
神懸かりならぬ霊懸かりして 『真理亜』は『魔理亜』と穢れ行く
『魔理亜』が産みし神の子は 『魔子人(まこと)』となりて『魔言(まこと)』を語る
御魂磨けよ 曇り晴らせよ
御魂を浄玻璃と成すまで・・・・
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