『教えの世』の終わり行く音 《癒奏術・煉獄の章》




卓上の勉学がいかに実地の役に立たないか・・・

それがよく示された。



理屈を学んで先生と呼ばれていても、いざ実地になると「人間力」次第となる。

学びなどというものの薄っぺらさは、学びの厚みの無さゆえである。

厚みとは「経験」の積み重ね・・・・

経験無き学びはただの「知ったつもり」という薄っぺらなものでしかない。



恐れを抱かされた医師たちは、即座に「思考停止」して、まるでしつけられた家畜のように「右向け右」と言われるがままにしか行動できないものがほとんどであった。

いざ実地の「危機」に対して自ら考え行動できず、思考停止して「流れ」に乗ることしかできない。

一体何を学び何を目指して何を掲げていたのか・・・・

一瞬で「自分」を見失った。



ただただ「お上」の正しさを信じるしか道がない。

そこを疑えば自らのアイデンティティは崩れ去る。

それが「おりこうさん」たちの「性(さが)」なのである。



本来、人を救うはずのものたちが、人を「病み」へと誘う。

型にはまり逸脱することのできない思考は、実地の「危機」という経験のない出来事に対して全く役には立たないのである。

どんなに素晴らしい「教え」があろうとも。




武田信玄の素晴らしい「甲州流軍学」の教えをもってしても、武田家は滅亡せざるを得なかった。

だが、その「教え」を徳川家康はものにした。

真田もしっかりとものにしていた。

だが勝頼は「もの」にできなかった。



「教え」そのものに力はない。

「実行」されてはじめて「力」となり、経験を「積む」ことで「大きな力」となる。



「危機」を知らないものに「危機」は対処できない。

どんなに素晴らしい「教え」があっても・・・である。

「危機」を知るものにだけ「教え」は生きる。



「教え」とは『道しるべ』であるからだ。

だから『道を歩いたもの』にしかわからないのである。

歩く道の『どこ』に道しるべが表れるかを知らなければ、「教え」という地図は役には立たない。

歩いて学んで、また歩いて学んでを繰り返すことでようやく「力」となる。



多くのものが「危機」に際して『思考停止』した。

なにも医師だけではない。

多くの者が思考停止したまま、ただ「流れ」に身を任せるしかなかった。

そして、途中で流れを降りることもできない。

「間違い」を認められず「改心」できないからである。

間違いを認めれば自らの「アイデンティティ」が崩れ去る。

だから改心出来ぬまま進んでゆく。

天地がひっくり返るほど「ひどく」なるまでこのまま進んでゆく。



まだまだこれから「危機」は来る。

そのたびに「思考停止」するであろう。

そうしてあらぬ方へ流されるままに流れてゆく。



やがて・・・・

三蜜そろわねば「道」を踏み外す事態となろう。


その時は・・・

それほど遠くはない。



ひふみ神示 黄金の巻 第二十九帖

二二の盗み合ひ、世の乱れ。心して怪しと思ふことは、たとへ神の言葉と申しても一応は考へよ。神の言葉でも裏表の見境なく唯に信じてはならん。サニワせよ。薬、毒となることあると申してあらうが。馬鹿正直、まことの道 見失ふことあると申してあらうが。道は易し、楽し。楽しないのは道ではないぞ、奉仕ではないぞ。世界に呼びかける前に日本に呼びかけよ。目醒まさねばならんのぢゃ。それが順序と申すもの。神示で知らしてあらうが。ここは種つくるところ、種は人民でつくれんぞ。神の申すやう、神の息 戴いて下されよ。天の道、地の道、天地の道あるぞ。人の道あるぞ。何も彼も道あるぞ。道に外れたもの外道ぢゃぞ。前は一筋ぞ。二筋ぞ。三筋ぞ。曲ってゐるぞ。真直ぐであるぞ。心得なされ。節分から(オーヒツキオーカミ)と現れるぞ。讃えまつれ。三年の大ぐれ。かのととり。