『掴みゆく道 滅びゆく道』 《癒奏術・鋼の章》





今更ではあるがもう一度、ジェイコブ・ロスチャイルド男爵が、ジャーナリストであるヘンリー・メイコウ氏に宛てた手紙の一部を読み返す。



ーーーーーーー前略


ヘンリー、あなたはワクチンのことを言っているが、なぜこれが国民に強制されているのか、それさえあなたは分かっていない。 


 あなたは不思議に思っている

「このウイルスは脅威でも何でもない。ワクチンは明らかに不必要かつ役に立たない。何ならむしろ、淘汰への序曲、それ以外の何物でもないじゃないか」


あなたは尋ねる

「明らかに危険であり多くの死亡や健康問題を引き起こしているこのワクチンを、なぜ政府は国民に強制しているのだろうか」


さらに尋ねる

「なぜ政府は、ウイルス症状を効果的に治す安価な薬の使用を抑圧し、役に立たない危険なワクチンを使わせようとするのだろうか」


このことはあなたにとって謎であり、それゆえにあなたは陰謀論に走るわけだ。

「人間の群れを淘汰するためにワクチンを使っているのだ」

などとね。


ヘンリーよ、そういう声をあげることで、人々が怖がり目を覚ますとでも思っているのか?

あなたは小学生のように「なぜ?」と問い続ける。 

人々は政府が自分たちの世話をし、お金をくれ、安全を確保しようとしていると信じ切っている。 

そんな国民に、あなたの主張する事実や理性が通用すると、本気で思っているのか?



ヘンリーよ、すべては心理学とメディアなのだよ。 

私がここで何を言ったところで、結果に何一つ影響は出ない。



我々は現在、毎年ワクチンを受けるように人々を調教しているわけだが、そういうこと以上にもっと重要なことが起こっていることに、あなたは気付かないのだろうか? 

中央集権的統制と共産主義について、私の友人のジャック・アタリが言っていることが正しいとすれば、「平等」こそ我々のアジェンダと新世界秩序の最も中心的かつ根本的な概念となる。 

我々が「全員がワクチンを受けなければならない」と言うとき、我々はそれを本気で言っている。 

そのことはあなたにも分かるだろう。


しかしあなたが分かっていないことは、「平等」こそがこの運動全体の本質ということだ。



ヘンリーよ、「全員」という言葉が鍵なのだよ。 

これは魔法の言葉だ。


全員が同じことをしなければならない。

我々が育成したすべての共産主義国家では、新秩序において計画された「平準化」や「平等」のため、人々が「同じニーズと欲求」を持たねばならない。

そして全員が同じ命令に従うよう、調教されねばならない。 


我々が育成に成功した現代中国では、人々は多くの違いをなくさねばならなかった。

全員が同じ服を着なければならないといった小さなことでさえ、文化的平等、物質的平等、つまり「同一性」を浸透させるために極めて重要だった。



もちろん、マスクはウイルスには全く役に立たない。 しかし大事なことは、トップダウンの命令に対する服従と適合なのだ。 

政府の命令に従って「全員」が着用する。これが重要なのだ。 

それは、全員を「均一化」にする制服のようなものだ。 一体感、順応性、服従性、そして何よりも「平等性」を植え付けるのだ。



ヘンリーよ、もう分かっただろう。ワクチンはこのプログラムにおいて心理学的な意味で極めて重要なのだ。 

きっちりコントロールしなければならないのは、「衝動的で手に負えない人間の心」だ。



『フランシス(バチカン・ローマ法王)』も同じように考えている。

ワクチン全員接種計画は、遺伝子への作用を通じた行動制御への扉を開くだけではない。 

現在の作戦にとってもっと重要なのは、ワクチンによる心理的行動制御である。 

ワクチンがウイルスに対して不必要で役に立たないかどうか、あるいは多くの人にとって有害であるかどうか。そんなことはどうでもいい。 

とにかくこのワクチンは、人間の行動をコントロールするためにこれまでに考案された方法のなかで、最も画一的で協調的な心理的武器なのだ。


制服を着るようにマスクを着用する服従は、しかし、ほんの皮膚表面だけの話である。 

それはあくまで外部であり、せいぜい美徳のシグナルに過ぎない。 

我々は、新世界秩序のために、もっと深い、もっと永続的な服従を要求する。



あなたのように自分でものを考える人間なら拒否する注射を、圧倒的多数の国民が、政府とメディアを盲目的に信頼して、その成分も知らずに、注射することを許すとき、それは間違いなく、我々が望む最も重要な勝利となる。 


心理学は非常にシンプルだ。

あなたのような人が長い間心理学を見過ごしてきたことに、私は驚いている。 


もし政府が「全員」にワクチン接種を受けさせることに成功したら、もはやワクチンに何が入っているかは重要ではない。 

重要なのは、適合性、服従、そして「平等」の感覚である。これらが個人的で内面的な「平等」と信頼の感覚を生み出す。


セックスや宗教儀式で見られるように、「人間が体に入れる」ことを許容するものは、精神や信念と深く関わっている。 

しかし精神面において、「人々はすでに我々に降伏した。」

我々のワクチンを「喜んで受け入れた者」もいれば、あなたがすでに目撃しているように、「世界中の政府が行使する強制力によって受け入れた者」もいるが、いずれにせよ、『人々は我々の前に膝を屈した』のだ。



後略ーーーーーーーー



そして


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我々は、『古くて疲弊した文明を解体』しようとしているのだ。

あなたはそれをやたら守ろうと奮闘しているがね。


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とも書かれている。





現在にいたるまで、ただ「淡々と」進められてきた計画は、これから先も続くだろう。

男爵が語った通り「心理学とメディア」によって多くの人は「同じ」であることを選択し行く。


そう。

ただ「同じ」であることを【軸】として・・・・



手紙で語られたように「ワクチンの中身が何であるか」など問題としない。

大切なのは「同じ」であること。

心理学とメディアによって「同じ」という旗を掲げさえすれば人は勝手に流れてゆく。



そして、多くの人は未だ「古くて疲弊した文明」も握って離さない。

『解体』されようとしている文明の延長線上にいる。




人は自らの「経験」の先にしか未来を思い描けないだろう。

だから、新しい世界、新しい文明と言われても、せいぜい「有史以前」の世界を持ってくることしかできない。

だがそれは、とっくの昔に「疲弊して解体された文明」でしかない。




解体された先に訪れる未来は、過去にあったものとは全く違うもの・・・・

それを描けなければ待っているのはただの「滅び」なのである。




人と『同じ』を望んでいる心に、どうして『新たな未来』が描けるというのか?



皆と「同じ」であるのなら『滅び』へと進んで向かってゆくだろう。

「同じ」であることに喜び、安堵し、「断崖」へと続く道を進んでゆくだろう。





だから『体験せよ』と神は言う。

自ら「経験」し「体験」した「過去に類のない自分」を見出さなければ、新たな未来など描けないのである。



『道の世』とは『自ら歩む世』である。

自ら経験し、体験し、進みながら「新しい自分」を「生み出していく過程」が【道】である。

そして、「新しい自分」を生み出し続けるものたちが集い「生まれる世界」が【新世界】となる。




既に滅んだ過去に縋っても、それらはけっしてやっては来ない。

それは『滅び』の道である。


神はとっくにそう語っているのであるから。






ひふみ神示 天つ巻 第二帖

これまでの改造は膏薬(こうやく)張りざから、すぐ元にかへるのぞ。今度は今までにない、文にも口にも伝えてない改造ざから、臣民界のみでなく神界も引っくるめて改造するのざから、この方らでないと、そこらにござる守護神さまには分らんのぞ。

九分九厘までは出来るなれど、ここといふところで、オジャンになるであろうがな、富や金(きん)を返したばかりでは、今度は役に立たんぞ、戦ばかりでないぞ、天災ばかりでないぞ、上も潰れるぞ、下も潰れるぞ、つぶす役は誰でも出来るが、つくりかためのいよいよのことは、神々様にも分りては居らんのざぞ、星の国、星の臣民 今はえらい気張り様で、世界構うやうに申してゐるが、星ではダメだぞ、神の御力でないと何も出来はせんぞ。



水の巻 第十二帖

人間心には我(が)があるぞ。神心には我がないぞ。我がなくてもならんぞ、我があってはならんぞ。我がなくてはならず、あってはならん道理分りたか。神にとけ入れよ。てんし様にとけ入れよ。我なくせ、我出せよ。建替と申すのは、神界、幽界、顕界にある今までの事をきれいに塵一つ残らぬ様に洗濯することざぞ。今度と云ふ今度は何処までもきれいさっぱりと建替するのざぞ。建直しと申すのは、世の元の大神様の御心のままにする事ぞ。御光の世にすることぞ。てんし様の御稜威(みいつ)輝く御代とする事ぞ。政治も経済も何もかもなくなるぞ。食べるものも一時は無くなって仕舞ふぞ。覚悟なされよ。正しくひらく道道鳴り出づ、はじめ苦し、展きゐて、月鳴る道は弥栄、地ひらき、世ひらき、世むすび、天地栄ゆ、はじめ和の道、世界の臣民、てん詞様おろがむ時来るのざぞ。邪魔せずに見物いたされよ、御用はせなならんぞ。この神示読めよ、声高く。この神示血とせよ、益人となるぞ。天地まぜこぜとなるぞ。



五十黙示録 五葉之巻 第十帖

悪自由、悪平等の神が最後の追込みにかかってゐるなれど、もう悪の世はすんで岩戸がひらけてゐるのざから、何とやらのように前から外れてアフンぢゃ、七重の花が八重に、八重が九重、十重にひらくのであるぞ、七重はキリストぢゃ、八重は仏教ぢゃ、今の神道ぢゃ、今までの教はつぶれると申してあろうがな。兎や角申さず掴(つか)める所から神をつかんでついて御座れよ、水は流れる所へ流れてゐるであろうがな、あの姿。





しかし、どんなに真新しい『経験』をしたところで、人はそれらをすぐに「風化」させてしまう。


それは『同じ』に囚われた虜囚と同じ。

「違い」を恐れ、「孤独」を恐れ、未踏の大地に踏み出せず、慣れ親しんだ「過去」に戻る。

いくら新しい「体験」を与えようとも、それを持って「過去」へ引き下がる。


だからもはや「与えても与えても」意味がない。



龍神和合で「かつてない体験」をしたところで、そこから「先」へ進まず「過去」へと戻る。

何度やっても「ウツボ」が穴に戻るように「過去」へと戻ってゆく。

「みんな」と「同じ」ところ、「疲弊した世界」へと戻ってゆく。




今は『未踏の大峠』である。

峻険な険しい山を「掴みながら」登っている最中である。


『兎や角申さず掴(つか)める所から神をつかんでついて御座れよ、水は流れる所へ流れてゐるであろうがな』



「掴みながら」進む・・・それもまた【道】なのである。