『統一国家という概念』 《癒奏術・鋼の章》




日本が最終的に「統一国家」としての『日本』となったのは、源頼朝の時代であろう。

だがそれでもまだ「北海道」は圏外である。

東北から九州までの地理を『日本』としての「統一国家」の体が出来上がったのは、奥州藤原帝国が源頼朝によって白旗を上げた時である。

言わばそれまでは「統一国家」ではなかったのである。


では、いつから「統一国家」へと向かいだしたのか?

神武天皇の時か?

神武天皇は現在の奈良で「大和王権」を樹立したにすぎない。

そして、その頃は各地に「王権国家」がたくさんあった。

「大和王権」はそのうちの一つにすぎない。


では卑弥呼のころか?

卑弥呼の時代もまだ各地に「王権国家」が数多くあり、それらは独立した「国」であった。



そもそも「統一国家」という『概念』自体が「無かった」のである。

各地に「王国」があり、それらと連携するいわゆる現代でいうところの「合衆国」のようなものである。

各地の「王国」を「国主」が『軸』となって集合体となっていた・・・といったところだ。

その『軸』となる「国主」が【大国主】というわけである。




神話に言う「国譲り」というのは「国主」の移行である。

だが、まるで「統一国家」を「譲った」ようなイメージを持つのは、現代人が「統一国家」という基盤の上に立っているからであり、だがそれは当時の時代背景には「無い」ものである。


現代のような中央集権の「統一国家」となったのは、鎌倉幕府による全国統治が最初である。

そこに至るまでにはかなりの時間を費やしている。




「統一国家」という『概念』はどこから来たものか?

それは「秦氏」と共にやってきた。

その前に「徐福」によってもたらされた。


そこから日本は「統一国家」への道を進み始める。

そして、その時代を「弥生時代」とも言う。



聖徳太子が「統一国家」のために仏教を軸に律令制を掲げ、藤原氏が施工に乗り出した時、まだまだ各地には「王権国家」は存在した。

それらをひとつひとつ「屈服」させて「統合」するために、まずは「王権国家」という基盤の上に立つ過去の因習である『神統治』を排する。

それ(神統治の因習)を守っていた「物部氏」を排したわけである。

そうして「王権国家集合体」から「統一国家」への道を走り始めた。


かつて『秦の始皇帝』がやったように。



そして『神』の在り方は『道教』のものへと変わり、仏教と習合してかつての『神』の在り方が上書きされた。

それは、秦の始皇帝がすべての宗教を排して「道教」を敷いたように、時間をかけて日本を統一すると共に「神」も「道教」「仏教」の中へと吸収していった。

そうして「源頼朝」の時代にようやく「統一国家」となった。


今の日本の「統一国家」の在り方は、だからそれほど古くはない。




それが「悪」かと問われれば、それはそうでもないと言わざるを得ない。

世界すべてが同じ方向へと向かっていたからである。



かつての「王権国家」と「大国主」の在り方は、【饒速日命】という「圧倒的強者」が居たから可能であったと言えるだろう。

「戦うまでもなく」相手を屈服させる力とカリスマ。

それは『神』に近い存在であったから出来たことである。

だが、そんな『神』に近い存在である『大国主』たる『軸』となれるものが居なければ、別の手段をとるしかない。


そんな変動の時の流れの中で白羽の矢が立ったのが「神武(じんむ)」の一族だったのだろう。

おそらく「国譲り」は『後付け』だろう。

勢力が伸びてきた「王国」に、かつての王権国家が集い、その中から「中心的一族」となったのが「神武」の一族だったのだろう。

そして、国家の新しい体へ移行するために「神話」が物語られ、それらの神話も王権ごとに存在したが、最終的に「勝者」の物語が後世に続くかたちとなっていった。

敗者の神話は排除され、一つに集約してゆく。



そうやって三千年も前から世界で始まった『統一』という『大流』は、最終段階を迎えて、今「世界統一」へと向かっているわけである。




だが・・・・

その「統一」の流れは「時間切れ」となっている。


すでに「新しい潮流」が胎動し始めているのである。

この「世界統一」の流れは、新しい「潮流」に対して「順風」で進んではいない。

数年前に完了していなければ「完成」には至らないのである。



では、この「世界統一」の流れは、新たに「胎動」し始めた「潮流」に対して、どのような『舵』をきるのだろうか?

おそらく『舵』を巧みに操作したところで、もはや潮の流れは変わっているため、進むのは「困難」なのである。

であるにも関わらず進んでいる・・・・


冥王星が山羊座へ一時期戻ったことで「進行具合」を取り戻したようには見えるが、それは「最後のあがき」でしかない。

あくまで「一時逆行」しただけの「潮目」なのである。



さて

ではどうなるのか?


そこが「選択(洗濯)」の分かれ目である。


どうなるか?・・・ではない。

どうするか?・・・である。



次に来る「文明」は誰も予測し得ないものである。

そして、今までの様々な文明の集大成となるものである。


それを「過去」から選び取るのは愚かである。

過去から選び取れば必ず「破滅」する。

だから過去からは選べない。



今という「刻」はそんな「刻」なのである。