正しく「在る」ということ 正しく「見られる」ということ 《癒奏術・鋼の章》
ひふみ神示 ウミの巻 第一帖
元の元の元の神は何も彼も終ってゐるのであるぞ。終なく始なく弥栄えてゐるのぞ。友つくれよ、友つくることは己つくることぞ。広めることぞ。己を友の心の中に入れることぞ。
皆われの目的たてに来てゐるぞ。それでは思惑たたんぞ。
御光が愛ぞ、真ぞ、愛はマぞ、真は言ぞ、これを誠と云うぞ、誠は生きてゐるぞ。
三千世界の生命ぞ、和つくれ、和はむすびぞ、何も彼も生れるぞ、いきするぞ、自分で勝手にしておいて親神を怨んでいるぞ。
心の眼ひらけよ。
自身が正しく「在る」ことと、正しく「在ると見られる」ことをはき違え、『正しさ』というものを歪める。
人とは愚かな生き物である。
「正しく在らねば」という思いも、『軸』が違えば似て非なるもの。
自分の「行い」を正すのか、「見られ方」を正すのか。
正しさを追いかけて「真逆」の道を行く。
正しく在らねばならないのに、正しく在ると見られるために「過ち」犯して「隠ぺい」されゆく。
『誠 在るや 無しや』
岩戸開けて捲れゆく。
闇夜で隠せた事どもが、岩戸開けて夜が明けて、あからさまとなりゆく。
正しくないのに正しいと「されて」来たもの。
正しいのに正しくないと「されて」来たもの。
誠で天地が返る。
気付いて改心できるのに、「見られる」を軸にしているものは、けっして改心出来ぬ。
過ちを認められぬ心
「正しく在る」ことをはき違えた心
正しさの基準(軸)が自分の中に無いから、自分ではどうすることもできない。
だから過ちをひた隠し、過ちがないと「見られる」から「正しい」のだと思い込んでいる。
『誠』のわからぬ愚かさ
『自分軸』のわからぬ愚かさ
誠の光が現れて 闇夜のヴェールが剝がれているのに
相も変わらずひた隠し 誠のフリした「お利口さん」
裸の王様 ダチョウの如く 頭隠して尻隠せず
準備はよいか
誠無きもの落ちてゆく
歪めた分だけ落ちてゆく
改心出来ねば落ち続け
情けで周りも引きずり込みゆく
愛と情けの白山道
登るも降るもおのれ次第
自分が正しくあることで 悪と見られることなど無数
自分軸があるものと 自分軸がないものは
見える世界がすでに違う
自分軸があるならば 悪の中に善を見て 善の中に悪を見る
白黒まだらな灰色の時間 それほど長くは続きはしない
既に夜明けて闇夜は捲れ 逃げ場のないほど照らされゆく
夜明けの白んだ東の空から 徐々に大地を照らしゆく
隠す心に誠無し 逃げる心に誠無し
自愛が無ければ他者を愛せぬ
ゆえに慈愛とならぬぞよ
愛と誠は陰陽一対
自分の真中で調和するもの
真中に軸(基準)があってこそ
調和し慈愛と現れる
驕り高ぶる天狗たち 思い上がりの鼻柱
顔の真中の鼻柱 表面(おもてづら)の真中の柱
心の真中の柱が誠 表面の柱が魔言
表面和しても心は和せぬ
情けで絡むは調和ならず 誠なければ和とならず
軸が無ければ輪とならず
ひふみ神示 風の巻 第七帖
神にすがり居りたればこそぢゃと云ふとき、眼の前に来てゐるぞ。まだ疑うてゐる臣民人民 気の毒ぢゃ、我恨むより方法ないぞ。神の致すこと、人民の致すこと、神人共に致すこと、それぞれに間違ひない様に心配(くば)りなされよ。慢心鼻ポキンぞ、神示よく読んで居らんと、みるみる変って、人民心ではどうにもならん、見当取れん事になるのざぞ、神示はじめからよく読み直して下されよ、読みかた足らんぞ
天の神も地の神もなきものにいたして、好き勝手な世に致して、偽者の天の神、地の神つくりてわれがよけらよいと申して、我よしの世にしてしまふてゐた事 少しは判って来たであらうがな。愈々のまことの先祖の、世の元からの生神、生き通しの神々様、雨の神、風の神、岩の神、荒の神、地震の神ぞ、スクリと現れなさりて、生き通しの荒神様 引連れて御活動に移ったのであるから、もうちともまたれん事になったぞ、神示に出したら直ぐに出て来るぞ、終りの始の神示ざぞ、夢々おろそかするでないぞ、キの神示ぢゃ、くどい様なれどあまり見せるでないぞ。
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