『木花咲耶の導きの御言(三言)』 《癒奏術・鋼の章》





とある日、瀬織津姫が数十人分の「邪気」を吸い取り私の身体に預けてきた。

いつもながら強引な導き・・・なのか修行なのか。



人の邪気は人が浄化せねば浄化はされない。

肉体を伴った邪気は肉体をろ過装置としないかぎり浄化されない。

霊体のエネルギーは霊体を戸化装置としないかぎり浄化されない。


日々、沸き起こる邪気はどこへ消えているのか?


それは「誰かが肩代わり」して「浄化」しているだけである。

おそらく浄化している当人は気付いていないだろうが、様々なかたちで「肩代わり」をしているのである。

浄化されている当人も当然気付いていないが、邪気はそうやって抜けているので大事に至らずに済んでいる。

「陰徳」というものである。



浄化している者は「陰徳」を積んでおり、浄化されている者は「借銭」を積んでいる。


それが理解できれば世の中はもっと綺麗になるのだが・・・





話を戻す。

瀬織津姫に渡された邪気の重みで「闇」の底へと沈み込んでいった。

いくらもがいても沈みゆくだけ・・・


「あぁ、このまま沈んでゆくのか」


と思っていると


『渡したであろう』

「?」


その言葉と共に、数か月前に訪れた場所で【木花咲耶姫】に渡された「オレンジ色の光」のイメージが流れ込んできた。


「あぁ、あれか・・・」


『放て』


「放つ?」


するとまたイメージが流れ込んでくる。

オレンジの光が炸裂し火花を散らす。


「・・・・・・で、どうやって?」


沈みゆく中で「はて?」と考える。


『愛を放て』


「・・・・・」


意味がわからない。

しかし、なぜかわかった気もしている。


小さなオレンジ色の稲妻のような光を発火させ、火花を散らしてその光をもって「邪気」を抱く。

すると、火花は大きな火球となり、火の粉を散らし始めた。


それとともに体は軽くなり、闇の底から浮かび上がり始めた。



『渡したであろう』

『放て』

『愛を放て』


この三言が導きである。

数か月ぶりにようやくあの時渡された「光」の『使い方』がわかった。


だがこれはたぶん「練習」である。


いずれ本番が来るのだろう。





と、これを書いていて・・・・・そう思った瞬間にふと気付く。


「本番が来るのか、それとも創るのか・・・」



『もそっと練習せい』


いかめしい「一言」が降りてくる。

厳島でよく話し、よく聞いたなつかしい『響き』である。





「邪気」とは様々な経験で生まれた灰汁(悪)の響き

解けば喜怒哀楽の情が入り混じった「残りかす」のようなもの。

それがいつまでも心と体に滞留して、荒く硬い「響き」となって「循環」を妨げている。


「情」の「濁り水」を火でさらにろ過して、水とカスに分離して燃やすと、水が火球となりカスが火の粉となる。

水は消えず形を変えて空へと溶け込み「循環」へと返ってゆく。


これが「火の洗礼」の『祓い』である。

・・・・とのことのようだ。



『練習せい』


「あ、二言言ったな」