『火と水と柱と』 《神人一致の理》
神(火水)の火とは燃えている火のことではなく、「気」の「火」である。
それは雷の稲妻(電)である「気の火」である。
雷は大地を目指して降りてくる。
だが、その「入口」となるものを目指し、そこを通して大地へと「気火」を送る。
そして、「入口」となるのが「柱」である。
落雷というものは「高いもの」ほど落ちやすい。
それが「理(ことわり)」である。
大地に落ちた「気火」は木などを通して落ち、そして「木」は燃え「炎」となる。
木は実体であり「火水」の「水」であり「木水(きみ)」である。
その「木水」が燃えて「炎」となることで「火水」が結ばれ「神(火水)」となる。
「気火」がある如く「気霊(きひ)」がある。
意を持った気・・・・つまり「意気(息)」である。
意気(息)が気霊(きひ)となり気火(きひ)が現れ「雷(神成)」となる。
「木水」がある如く「木実(きみ)」がある。
気霊が木実に宿り燃え上って「生命」となる。
生命は「神(火水)」が結ばれた証である。
「柱」を立てるのはその象徴であり、神の気を受け生命が息吹き、花を咲かせて実を結ぶ。
心に「柱」を立てることで、神の「気霊」が宿り、花を咲かせて実が結ぶ。
心に立てた「柱」に「神」を宿し「神人」という花を咲かせて「宮」という実を結ぶ。
だから出雲は高い柱を立て、その上に「宮」を建てた。
だがその柱は壊され、宮は大地に蹲(うずくま)る。
未だ「柱」を掲げているのは「諏訪」のみ。
それは「火水」を結ぶ「柱」
神人結ぶ「柱」である。
神という「気火(気比・吉備)」と人という「木実(君)」
君主とは「神人合一」したものである。
伊邪那岐命と伊邪那美命を結ぶ「柱」
「柱」無ければ結ばれないのである。
「柱」とは「神を背負う意志(石)」
志しを天高く掲げた意志である。
意志(石)の柱、木(気)の柱
いわゆる意志木(石木・意識)の「柱」である。
そこに神の「意」が宿り「神人合一」となる「君」が生まれる。
神を求め現わす「意識」無きところに「柱」無く、神が降りる「入口」無し。
柱に小我がまとわりついて、柱は歪んですぐに倒れる。
小我は柱にもたれ巻きつくき、情けの水で柱を腐らせてゆく。
大我は小我にびくともせず立ち続ける太い意志。
太いほど高く伸びゆき、雷(神成)をもっともよく受ける。
自分の身を立てるために神をつっかえ棒にしているものは、神柱より我が身の柱のほうが高い。
だからそこに火巳(かみ)が宿る。
己己(おのれおのれ)と己を立てるところ、霊巳が取り憑くは自然の成り行き。
火水は稲妻、火巳は巻き憑く。
情熱と執(湿)拗
全く違うエネルギーである。
柱を壊して鳥居(取り意)にし注連縄(閉め縄)かけた「岩戸閉め」である。
神意は天から地へと縦に降りるもの。
潜るは横の動きであり神意に非ず。
地の霊の門である。
気火の「火」を奪った「焔別(ほむらわけ・品陀別命)」
以後、火女(ひめ)は比売(ひめ)となりし。
また火女(ひめ)は火女(かめ・亀)なり
巫女(みこ)は火を結ぶ水子(みこ)なり
神人合一して火水子(ひみこ)なり
雷(神成)の気火はいつ来るとはわからない。
突然やってくる。
だが無理やり迎えに行って気火を求めれば、それは神の意に非ず。
ゆえに火流子(ひるこ)となる。
卜占(ぼくせん)の分かれ目なり。
神意無きもまた神意なり。
神意は「今」という瞬間の必要に応じて現れるもの。
瞬間瞬間合一出来ねば火水子とならず。
都合で時を曲げれば火流子なり。
伊邪那岐命と伊邪那美命の理なり。
神意の期限は一瞬一瞬。
期限過ぎれば腐れり。
神を負う「柱」とは一瞬一瞬躊躇せず神意を現わす意志なり。
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