『岩戸隠れの前と後』~神人合一を知る 《癒奏術・鋼の章》





岩戸隠れの前と後

これがわからなければ様々な事がわからない。


ちなみに「岩戸隠れ」と「岩戸閉め」は別である。





瀬織津姫という天照皇大神が岩戸に隠れる前は、『神人合一』が当たり前であった。

だが、岩戸隠れの後は「豊受」となれる『玉依』が「天照大神」の「お役」となる。



この「似て非なるもの」の「違い」が私自身なかなかわからなかったが、徐々に整理がついてきて理解できるようになった。




『神人合一』は「神霊」がそのまま「意識」までをも動かす。

「対話」は一切なく、言霊が「降りる」こともない。

すでに意識に「在る」状態である。

『融合』されているのである。


かたや、玉依の巫女は「通信」である。

「神霊」の「言霊」や「導き」を「通信」で得るということ。



自分の決断にすでに神意が「在る」のと、神意を「伺う」という違いである。




自分の意思決定に「神意」が現れなくなった・・・

というのが「岩戸隠れ」である。



神意が見えない

神意が感じられない

神意が自分の中に無い


ゆえに「玉依」が始まった。



アメノウズメが歌い踊るのは、ウズメ(渦の目・中心)を探る行為

要は「周波数」を合わせているのである。


そして周波数が合致して「鏡」という「心の水面」に映ったものを引き出す。

そうして御言(命)を生んでゆく(導きを伝える)


器を空っぽにして御魂を入れる「神懸かり」である。


つまり「いっとき自他を入れ替える」ということをする。




だがそれは「心」が平静に静まり、囚われもない状態で無ければ「神かどうかわからない」わけである。

また、審神者も平静で無私でなければ務まらない。




それがどのようにどの程度出来ていたのかはわからないが、初期のころは相当出来ていたのだろうと思う。

そして、最初に現れたのが【豊玉姫神】であり、映った(依った)のが「ウガヤフキアエズ命」であったということで、その後、導きはすべて「ウガヤフキアエズ命」の「神意」である。

それが「ウガヤフキアエズ朝」の「在り方」である。


そこには神と自分という明らかな「自他の区別」が存在する。

だが「神人合一」には区別がない。




正直、はじめは「あれ?」という違和感はあったが、時間の経過とともにそれも無くなる。

私自身は「これ」しか知らないから「違う」ということの存在自体に気付かなかった。


どこを見ても自分の状況とは違い、「岩戸隠れ」以降の情報しか無い。

だから整理するのに時間もかかった。



瀬織津姫の言葉と言いながら、およそ同神が「言いそうもない」ことばかり言う人が多いから余計に混乱する。

だから「違い」を明確に知ることでようやく落ち着いた。



だいたいそもそも瀬織津姫なら「言葉を降ろす」などということはしない。

する必要が無いのである。

なぜなら、かの神は「意識」を直接動かせる。

他者の意識をも・・・・である。



ただし条件はある。

それが「掃除洗濯」ということだ。





神の岩戸は既に開いている。

岩戸に隠れた天照皇大神もすでに玉座に還っている。

あとは人が「岩戸(言答)」を開くだけである。

そうすれば、岩戸が開けている人は「同じ気付き」という「神成」を受け取り行動することが出来る。

それは単に「自分が気付いた」というていで起こる。



「ウガヤフキアエズ」の時代を飛び越えて、「神世」の時代となるのが『弥勒世』

だから掃除洗濯出来た「菩薩」であるものとそうでないものが二線に分かれるのである。

神意を即示現できるのが菩薩である。


神の御言を降ろすのは「月の世」である。

そこに囚われたなら「夜」のまま「夜見(黄泉)」の世界のままである。



岩戸を開いても岩戸隠れのままなら、それは「夜」である。

もはや天照は隠れてはいない。

だから、あからさまに「わかる」時代となっている。

すでに夜は明けているのである。




但し、様々な神々は御言を伝え降ろしてくる。

それも重要ではある。


自分の真ん中に「自分の神」の光があるなら、神々の言葉も審神者出来るはずである。


だが、その前に「自分自身」を審神者して掃除洗濯しなければならない。

そして、これが出来ないというのが現状なのである。



汚れ散らかったままで審神者した「つもり」になる。

そして「つもり」のまま「霊懸かり」してゆく。


こればかりは言ってもわからないだろう。

そもそも聞く耳もない。


憐れなことである。






ひふみ神示 上つ巻 第十三帖

元の人三人、その下に七人、その下に七七、四十九人、合して五十九の身魂あれば、この仕組は成就するのざ、この五十九の身魂は神が守ってゐるから、世の元の神かかりて大手柄をさすから、神の申すやう何事も、身魂みがいて呉れよ、これが世の元の神の数ぞ、これだけの身魂が力合はしてよき世の礎となるのざ。この身魂はいづれも落ちぶれてゐるから、たづねて来てもわからんから、よく気をつけて、どんなに落ちぶれている臣民でも、たづねて来た人は、親切にしてかへせよ。何事も時節が来たぞ。



富士の巻 第九帖

神界は七つに分かれてゐるぞ、天つ国三つ、地(つち)の国三つ、その間に一つ、天国が上中下の三段、地国も上中下の三段、中界(ちうかい)の七つぞ、その一つ一つがまた七つに分かれてゐるのぞ、その一つがまた七つずつに分れてゐるぞ。今の世は地獄の二段目ぞ、まだ一段下あるぞ、一度はそこまで下がるのぞ、今一苦労あると、くどう申してあることは、そこまで落ちることぞ、地獄の三段目まで落ちたら、もう人の住めん所ざから、悪魔と神ばかりの世にばかりなるのぞ。この世は人間にまかしてゐるのざから、人間の心次第ぞ、しかし今の臣民のやうな腐った臣民ではないぞ、いつも神かかりてゐる臣民ぞ、神かかりと直ぐ分かる神かかりではなく、腹の底にシックリと神鎮まってゐる臣民ぞ、それが人間の誠の姿ぞ。いよいよ地獄の三段目に入るから、その覚悟でゐて呉れよ、地獄の三段目に入ることの表(おもて)は一番の天国に通ずることぞ、神のまことの姿と悪の見られんさまと、ハッキリ出て来るのぞ、神と獣と分けると申してあるのはこのことぞ。何事も洗濯第一。



日の出の巻 第二十一帖

神かがりと申しても七つあるのであるぞ、その一つ一つがまた七つに分れてゐるのざぞ、ガカり、かみかかり、か三かかりぞ、(カミ)ガカリぞ、(かみ)かかり、か三かかり、かみかかりざぞ、神かかってゐないと見える神カカリが誠の神カカリと申してあろが。そこらに御座る神憑りは五段目六段目の神憑りぞ。神カカリとは惟神(かむながら)の事ぞ、これが神国の真事(まこと)の臣民の姿ぞ。惟神の国、惟神ぞ、神と人と融け合った真事の姿ぞ、今の臣民のいふ惟神では無いぞ、此の道理 会得りたか、真事の神にまつりあった姿ぞ。悪の大将の神憑りは、神憑りと分らんぞ、気つけて呉れよ、これからは神カカリでないと何も分らん事になるのざぞ、早う神カカリになる様 掃除して呉れよ、神の息吹に合ふと神カカリになれるのぞ。一二三唱へよ、祓えのれよ、神称へよ、人称へよ、神は人誉め 人は神称へてまつり呉れよ、まつはり呉れよ、あななひ呉れよ。



黄金の巻 第五十七帖

仲よしになって道伝へよ。道を説けよ。一切を肯定して二九(ジク)を伝へよ。悪神かかりたなれば自分では偉い神様がうつりてゐると信じ込むものぞ。可哀さうなれど それも己の天狗からぞ。取違ひからぞ。霊媒の行見ればすぐ判るでないか。早う改心せよ。霊のおもちゃになってゐる者多い世の中、大将が誰だか判らんことになるぞ。先生と申してやれば皆先生になって御座る。困ったものぞ。



春の巻 第二帖

カミヒトと申すのは、神の弥栄のため、世の弥栄のため祈り、実践する人のことであるぞ。神のため祈れば神となり、世のため祈れば世と一体となるのぢゃ。自分のためばかりで祈れば迷信、われよしの下の下ぞ。誰でも霊かかりであるぞ。石でも木でも土でも霊かかりぞ。これは一般かみかかりであるぞ、特別神かかりは神の御力を強く深く集める行がいるのぢゃ。九分通りしくじるのぢゃ。太陽の光集めること知っているであらうが。神の理(ミチ)をよりよく、より高く集める理(ミチ)がマコトの信仰であるぞ。理(ミチ)であるぞ。世、迫って、霊かかりがウヨウヨ出ると申してある時来ているのぢゃ。悪かみかかりに迷ふでないぞ。サニワせよ。外はウソが多いぞ。内の声ウソないぞ。