【穢れの苗床】~ジャニーズに思う
なんでこんなことを書くのかというと、あまりにも気持ち悪いからで、いわゆる大人たちの「責任のなすり合い」の末に『やっぱり弱いところに悪を吐き出す』ことに変わりのない今の日本人を目の当たりにするからだろう。
ジャニーズの『子供たち』が被害にあっていることを、多くの『大人たち』が見て見ぬふりをしてきたわけで、だから『犯罪』がのさばってしまうのだが、誰もそのことを「改心」しない。
そして、どこかに責任を擦り付ける場所はないかと考えあぐね、結局『当時子供であった被害者かもしれないもの』を責めることで、自分たちが見て見ぬふりをしてきた『灰汁(悪)』を押し付けようとしている。
それは「被害者」をさらなる「被害者」にするようなもので『二重被害』を引き起こしているようなもの。
そもそも『見て見ぬふり』が無ければこのような犯罪が数十年も続くわけがなく、結局は社会そのものが『救いがない』状況を作り出しているから起こっているのであって、そんな「目の前で犯罪に巻き込まれている子供を見て見ぬふり」でやり過ごす大人たちの問題なのである。
『衆人環視』の中で平気で犯罪が出来てしまう世の中を生み出している自らを『改心』するものがどれだけいるのか?
まわりにたくさん大人たちが居るのに、まるで『体育館裏』と変わらないことをしった子供たちの【絶望】に、どれほど残酷なことをしていたかと反省さえしない。
気持ち悪くて反吐が出そうである。
そんな環境の中で【愛は地球を救う】と宣っている偽善が、あまりにも気持ち悪くてしかたがない。
『穢れ』に蓋をして「何も無かったこと」にして、上面だけを花で美麗に飾れど、その根は「穢れ」の養分を吸っているわけである。
「麻痺している」などということを通り越しているだろう。
悪いと思わないわけがない。
心が痛まないわけがない。
魂は自らの行いを苛み続ける。
だから自ら【魂】を売り渡した。
犯罪を育てる『苗床』のようになった社会で、救いを求める子供たちの声は簡単にかき消され、子供たちの「被害」の温床でさらに『苗床』は育まれる。
そんな『苗床』となった大人たちが、「かつて被害者であったかもしれない子供たち」を責めている。
気持ち悪くて反吐が出る。
こんな「子供にとって救いのない」社会で、子供たちは何を夢見ていくのか?
関係ない話であるが、かつて『カムイ』が言った言葉がある。
『夢を与えて奪う。許せん。』
毒にまみれた偽善が蔓延し、これだけ浮き彫りになってもまだ目を背ける。
そこは「見ないように」「聞かないように」「言わないように」する。
それに触れたら『自分も苛まれる』ことを知っているから・・・・・
誰しも日常の中で「見て見ぬふり」をしていることだろう。
そこには「優しい嘘」と「悪の苗床」の二つがある。
そのどちらも「有耶無耶」にしていれば心は魂に苛まれる。
苛まない魂は曇りすぎていることだろう。
今、人々がどれほど「気持ちの悪い」波動やオーラを放っているのか知る由もなく、「波動が高い」「綺麗なオーラ」などと言い合っている。
次元が上がり「黄泉と現世の重なり」は、そのまま「黄泉」の姿を示現している。
隠せたものが隠せなくなっているのに、「見ない、聞かない、言わない」を通して『無かったこと』にでもしようというのだろうか。
それが【穢れ】の苗床であるのに。
「霊能力」が無いから見えなくても仕方ない・・・などということではない。
岩戸開けば誰でも見えるものである。
左目の天照大神がしっかりと映しとってくれる。
今のコロナ禍もそんな「苗床」ゆえに育ったものである。
「見て見ぬふり」をする医者たち、専門家たち、メディアたち、政治家たち、そして大人たち。
その穢れが噴き出て蔓延している禍いでしかない。
神々の怒りは生半可なものではない。
そんな怒りの声も「見ざる聞かざる言わざる」で届かないのだろう。
0コメント