九分九厘の霊(優生思想)懸かり ~神の選別 《癒奏術・芙蓉の章》




世界は「優生思想」という大地に造られた「箱庭」であり、そこにいる限りその「思考の檻」からは逃れられない。

優生思想の勝者であれ敗者であれ、どちらもその「基準」を『軸』にして思考する。


だから、「神の選別」と聞けば、九分九厘の人間は「優生思想」に基づいた思考を展開する。

優生思想に基づいた「選別」が行われるものと「勝手に」錯覚してゆく。



九分九分九厘の霊懸かりは、優生思想が思考の発端にこびり付いた状態であり、それは日常からしてその思考に基づいて思考し、言葉を発し、行動する。

だから代々受け継がれてゆく。


それが「穢れ」だと気付かずに、後生大事な「自分軸」としている。

勉強すればするほどに、エリートになればなるほどに、その思想は強化されてゆく。

なぜなら、それが学びの「原動力」であり、モチベーションを維持する「装置」となっているからである。


自分自身が真ん中に据えた「軸」に、自分自身が首を絞められているとも気付かずに・・・




例えば、二本のシャープペンシルがあるとする。

一本にはちゃんと「芯」が入っており、もう一本の方には「芯」が入っていなければ、「芯」の入っているペンは使えるが、「芯」の入っていないペンは使えない。

そこで字を書こうとすれば、おのずと「芯」の入っているペンを手にする。

それが「神の選別」である。


「芯」があるから「書ける」だから使う。

ただそれだけのこと。

優劣の有る無しの話ではない。

「芯」の有る無しの話である。



大方の宗教という「教えの団体」の「教え」には「優生思想」が付いてまわる。

それがモチベーションであり信仰の「原動力」である。


だから「教えの世は終わり」なのである。

軸に「穢れ」を持った教えは、どんなに崇高な教義を唱えようとも「穢れ」が付きまとう。


そして、それらの行きつく先は「優」と「劣」の二分した世界。

その箱庭に九分九厘の人間は囚われたままである。



自分には「そんな思想はない」と言いながら、それに従い恐れ夢見て生きている。


感情ばかりに振り回されて、掃除洗濯をした「つもり」になっても、蛇口の先端に穢れがこびり付いていれば、いくら蛇口をひねっても「穢れ水」しか流れてこない。


思考の発端

思いの発端


しっかりと見なければ「穢れ」など見つからない。


外側の「情報」ばかり求めても、その情報に「穢れ」が付いている。

霊(優生思想)懸かりから抜けられぬものが、いくら高尚なことを語っても、そこには霊が張り付いている。

それが「あからさま」にわかるほどになっているが、それがわからないのは「それ」を「穢れ」と認識していないからである。


悪は常に善の仮面を被っている。

詐欺師は「いいこと」しか言わないのが当たり前。

一見「素晴らしいこと」「善いこと」に見えても、「在ってはならないところに在れば」それは「穢れ」なのである。



その「穢れ」を落とさなければ、結局のところ「それ」に振り回されることになる。

自分では「そんなつもりはない」と言ったところで、やはり振り回されるのである。


そんな「振り回される」ことがわかっているものは、神の目から見れば「芯の無いペン」と同じこと。

どんなに使ってやりたくても、書けないのでは仕方ないのである。




ひふみ神示 下つ巻 第二十帖

上、中、下の三段に身魂をより分けてあるから、神の世となりたら何事もきちりきちりと面白い様に出来て行くぞ。神の世とは神の心のままの世ぞ、今でも臣民 神ごころになりたら、何でも思ふ通りになるぞ。臣民 近慾(ちかよく)なから、心曇りてゐるから分らんのぞ。今度の戦は神力と学力のとどめの戦ぞ。神力が九分九厘まで負けた様になったときに、まことの神力出して、ぐれんと引繰り返して、神の世にして、日本のてんし様が世界まるめてしろしめす世と致して、天地神々様にお目にかけるぞ。てんし様の光が世界の隅々まで行きわたる仕組が三四五(みよいづ)の仕組ぞ、岩戸開きぞ。いくら学力強いと申しても百日の雨降らすこと出来まいがな。百日雨降ると何んなことになるか、臣民には分るまい、百日と申しても、神から云へば瞬きの間ぞ。



素佐鳴大神悲しめば 海空山河泣き叫ぶ

素佐鳴大神驚けば 大地鳴動大津波

素佐鳴大神怒りなば 地割れ火を噴き山沈む

素佐鳴大神喜べば 春の曙花咲き乱れる


まことの神の神力は 神の思いが示現する




ひふみ神示 月光の巻 第四十九帖

そなたの用意が足らんぞ。日々の人間の御用を、神の御用と和すように、神の御用が人の御用、人の御用が神の御用となるのがまことの道であり、弥栄の道であり大歓喜であるぞ。いつでも神かかれるように神かかってゐるように、神かかっていても、われにも他にも判らぬようになりて下されよ。鍬とる百性が己をわすれ、大地をわすれ、鍬をわすれてゐる境地が、まことのみたましづめであり、神かかりであるぞ。そこらでなさる行も、それに到る一つの道ではあるが、それのみではならんぞ。気つけ合ってよきに進んで下されよ。そなたが歩むのぢゃ。道は自分で歩まねばならんぞ。他人におんぶしたり、他人が歩かしてくれるのではないぞ。そなたの力で、そなた自身の苦労で人を助けねばならんぞ。人を助ければその人は神が助けるのであるぞ。この道理なぜに判らんのぢゃ。人を助けずに我を助けてくれと申しても、それは無理と申すもの。神にも道はまげられんぞ。