流水は腐らず 《癒奏術・芙蓉の章》


流水不腐、戸枢不螻、動也、形気亦然、形不動、則精不流、精不流、 則気鬱、鬱処頭則為腫為風、処耳則為掲為聾、処目則為蔑為盲、処鼻則為助為窒、処腹則為張為府、処足則為痿為蹶


流水は腐らず、戸枢の螻せざるは、動けばなり。形気もまた然り。形動かざれば、則ち精流れず。精流れざれば、 則ち気鬱す。鬱の頭に処れば、則ち腫を為し風を為す。耳に 処れば、則ち掲を為し聾を為す。目に処れば、則ち蔑を為し盲を為す。鼻に処れば、則ち を為し窒を為す。腹に処れば、 則ち張を為し府を為す。足に処れば、則ち痿を為し蹶を為す。

・・・呂不韋(りょ・ふい)




清浄な清水も器に留まれば数日で腐る

空の器であれば別だが、榊の水など夏場は毎日替えないと榊まで腐る



人をいくら浄化しても三日もすれば淀んでしまうのは、「流れ」が無いからである。

思いの中に「留めよう」という意志があるから「淀む」のである。



喜びを、幸福を、利益を、愛を自分の中に「留めよう」という思いが「穢れ」を生む基(もと)であるのに、それをけっして手放さない。

自分の中に閉じ込め留めようとするから、壁が生まれ孤立してゆくこととなる。

溜めれば溜めるほどに「腐り水」は増え、淀んだ水に何を入れても腐りゆく。



蓄える


その意識がある限り「何とも繋がらない」のである。



ヨーガや座禅、瞑想をして「穢れ」を「浄化」したくなるのは、「水が流れて」いないからで、それでは何年、何十年修行をしても常に「浄化」しなければならず、「浄化」することで気分が良くなるから「それでいい」と思ってしまい、その「繰り返しのループ」から脱することが出来なくなる。



ヨーガも禅も修験も「自分のために」やっているうちは「悟り」へは到達できない。

水を溜める「器」であるうちは「浄化」という「水の入れ替え」ばかりに囚われて先へは進めないのである。

意識が「自分の中」に留まり続けているから、思惟の念が淀み凝り、穢れとなって闇(病み)となる。




人救わば救われる 尊べば尊ばれる 癒せば癒される 浄化すれば浄化される


流れる水の源初に湧水在り 流れ在るから湧き続け 留むれば眞名井は枯れる


「流す」意志無きところ湧水無し


救いの意思は救いの湧水 尊ぶ意志は尊びの湧水 癒しの意思は癒しの湧水 浄化の意思は浄化の湧水



自分のための「何か」は「器の水替え」

他者のための「何か」が「流水」



自分を忘れなば壁無く器無し

器無くせば天地一体

言事流れる川と成りける






五十黙示録 五葉之巻 第三帖

友つくれと申してあろうが、友と申しても人間ばかりでないぞ、山も友ぞ、川も友ぞ、動植物も友ぞ。一人の友を得たら一つの世界を得たことぞ、何も彼も皆友ぢゃ、友は己ぢゃ、皆己となれば己なくなるぞ、己なくなれば永遠に生きられる、無限の己となるぞ。御神前で拝むもよいなれど、空を拝めよ、山も川も拝めよ、野菜拝めば野菜が、魚を拝めば魚が神となり、又、己となるのぢゃ。足らぬことないクワシホコチタルのウラヤスの自分となるのであるぞ。



日本書紀

卅有一年夏四月乙酉朔、皇輿巡幸。因登腋上嗛間丘而廻望国狀曰「姸哉乎、国之獲矣。(姸哉、此云鞅奈珥夜。)雖內木錦之眞迮国、猶如蜻蛉之臀呫焉。」由是、始有秋津洲之號也。昔、伊弉諾尊目此国曰「日本者浦安国、細戈千足国、磯輪上秀眞国。(秀眞国、此云袍圖莽句爾。)」復、大己貴大神目之曰「玉牆內国。」及至饒速日命乘天磐船而翔行太虛也、睨是鄕而降之、故因目之曰「虛空見日本国矣。」



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