『龍と蛇』 似て非なるもの 《癒奏術・弥勒・序》




世間では龍だの蛇霊だのとよく言われるが、その見わけも違いも分かっている人はほぼ居ないだろう。


長い間現実世界に関わっている蛇霊は、その見た目が「龍」のようになってくる。

だがそれでも決定的に見るからに違うのは「手足が無い」ことである。


そしてもう一つ。

蛇霊は蛇と同じで「地面を這う」。

だから「鎌首をもたげる」姿となる。 

龍は地面を這わないので「鎌首をもたげる」ような恰好はしない。

よく絵には「鎌首をもたげている」ようなものが描かれていたりするが、けっしてそのような姿勢はとらない。 


また、存在の「在り方」がそもそも違うわけであり、だから「同じ世界には存在していない」のである。 



世界は幾重ものレイヤーを重ねたようにそれぞれの世界が分かれており、存在している階層が違う。

だから、蛇霊の階層に周波数が合った霊能力では龍の存在は認知し得ない。

そこはあくまでも「霊界」の階層である。


かたや龍は現実世界に直接的に影響を与えられる。

三次元と霊界に「跨(またが)る」ようにして存在している。 

つまりは「エネルギーの質」が別物なのである。



言うなれば龍は人の「気」のエネルギーに近いと言えよう。

さらに、人の「気」よりも質量が多い。

まあ架空のものではあるが「波動拳」を発したようなエネルギーだと思えばいいのではないかと思う。

凝縮された高質量のエネルギー体ということである。 



 蛇霊はあくまで「霊」でしかなく、人の「霊」に感化は出来るが、龍は人の「肉体」にも感化できる。

肉体というよりも、それが発する「気」に影響を与えられる。

いわば全く別物の生命体なのである。(何を生命と定義するかによるが) 




風水などで「龍脈」というものがあるが、それは実際に「龍の道」であったりする。

いわゆる「地龍」というもので、龍が実際に通るわけであるから「龍の気」が充実しているわけである。

そして、そういうところに神社や仏閣などは立てられている。

要は「龍の気」を頂いているということだ。


そんなエネルギーを転化して「霊界」に送り、エネルギーで充実した霊をもって人間霊に感化し、人間を動かすのが神道や密教などである。 

言い方を変えるなら「龍の気を吸い取る吸血鬼」のようなものでもある。 




このように「龍」とは現界と霊界の「次元を跨ぐ」存在であり、だから高度な神霊は「龍体化」して次元間を移行する。

逆に言うと「龍体化」しなければ次元を超えられない。

もしくは「龍に連れられて」でなければ超えられない。 



地球にも「気圧の層」があるのと同じく「次元の層」が存在するわけで、だから通常は「住み分け」がされているので各層には「様々な世界」が存在することになる。

縦の層だけでもいくつも分かれており、さらに同じ層でも「種」というか「存在の在り方」でいくつも分かれている。 

そんな様々な世界や層の上の方に「高天原」が存在している。

そして、その「高天原」を真っすぐ地上に重ね合わせることが「ミロク世界」であり、だからミロク世界を示現するためには「高天原」と真っすぐつながることが大前提ということである。

それは「高天原」に住む神々と真っすぐつながる人々でなければならないということ。 



だから魂自体が高次元と繋がらなければならず、繋がるためには次元を超える「龍」の力が必要となる。

高天原の神々が龍体を示現して降ろしてきて、魂を引き上げてくれるということが実現しなければ、高天原とは接続できない。 

もしくは自ら「龍」のエネルギーを発動し、上の次元へと移動できなければならない。

それを可能とするのがクンダリーニのエネルギーである。


であるが、クンダリーニの初期のエネルギーは「蛇」である。

およそ次元を超えることなど出来ない。

だから、その「蛇」を次元を超える「龍」に育てなければならず、そのためにいくつものチャクラが存在する。

チャクラが上へ上がるにつれ、エネルギーは繊細になる。

荒い蛇のエネルギーもチャクラを一つ一つ通過するごとにエネルギーの幅が増える。


荒い三次元のエネルギーから繊細な高次のエネルギーまでの「変化の幅」を持つのが「龍」であり、高度な神の龍であるほどその幅は広い。

だから次元間を移行できるわけである。


たとえどんなにエネルギーの質量があろうとも、蛇のエネルギーのままでは三次元あたりをウロウロするしかないのである。

クンダリーニのエネルギーは各チャクラの開花と共に、多くの帯域を持つに至り「龍」へと成長するのである。




「蛇霊」も上昇を目指せばやがては「龍」となれる。

そのために「神」のお役を務めようとする蛇霊もいる。

きっかけさえあればその気になるものも居るので、そのきっかけを与えてやればいい。

だがそれも、まずは自分が行かなければ始まらない。



大切なのは「目指す」こと。

羯諦 羯諦 波羅羯諦・・・・・である。