風招(かざおぎ)する神々 《癒奏術・弥勒・序》
ここから先は『察知』する力がなければどうしようもなくなってくるだろう。
2020年初頭から始まった『新世界』の序章で、明確にそれが分かれた。
察知出来るものと出来ないもの。
神々が伝え来るものをちゃんと「聞く」ことが出来れば、この先の未来は『手放し』で渡れる。
だが、それが出来なければ「渦」に巻かれて呑まれてしまう。
多くの『知識人』が飲み込まれたコロナ騒動は、「知識」だけで生きるものを完全否定した。
多くの医者や学者たちが、ただ目先の「欲」につられて渦に呑まれていった。
やがて彼らは「愚かさ」を知ることになるだろう。
そして、ただそれに追随した「日和見」たちも、同じく「愚かさ」を知るだろう。
『察知』するとは「気付く」ことである。
そして「気付き」は『雷(神成)』。
体主霊従の知恵は「身欲」に突き動かされる。
「身欲」を得るために知恵が働く。
だから間違う。
そうして「間違ってはいけない」間違いを犯した。
それを、身をもって知ることになるだろう。
神々の活動は益々激しくなる。
そして「察知」出来るものと出来ないものの差が益々現れてくる。
恐れを避けてきたものは恐れに疎く、悲しみを避けて来たものは悲しみに疎い。
薄氷の大地を踏みしめていながら、それが盤石であると思っている。
だから気付けない。
だから察知出来ない。
怒りを避けて来たものは怒りに疎く、だから「怒り」を発動できない。
「怒り」を発動できなければ、「恐れ」は克服できない。
『コロナ禍』というものに出くわした時、現実が自己判断の許容範囲を超えたものは、思考停止し、ただ流されるままに「作られた流れ」に乗っていった。
ただ「空気を読む」という卓越した(させられた)能力だけを発揮して、自己判断を投げ捨てた。
一事が万事
その一事がその者たちの万事を示した。
これから壊れ行く世界に対して、想像力が自己判断の許容範囲を超えているため、すでに未来を想像することも投げ捨てている。
そして相変わらず「空気」だけを読み、ただその「流れ」に乗ればいい・・・というキャパシティしか持っていない。
一事が万事・・・である。
大切なのは「真実」ではなく『現実』である。
知識だけで、知恵だけで「現実」には到達できない。
現実は「知恵」で考えるものではない。
現実とは「感じる」ことでしか認識できないのである。
「感じた」ものこそが「現実」なのである。
だから「感じる」ことが出来なければ「現実」は認識できない。
だから「知恵」や「知識」ばかりを尊ぶものは間違う。
そして、それがこの3年で示された。
五感で感じた「現実」を思考するのが『智慧』である。
だから、現実を見るのは目だけでなく、耳であり、鼻であり、口であり、舌であり、肌であり、身体の様々な細胞たちなのである。
自分であるものを信ずることが出来ないものは、もはや「信じる」ということが出来なくなるだろう。
これから起こり続ける「破壊」は、過去のどのような知識からも取り出せない。
それでも頭の仮想空間から抜け出せないだろう。
天狗のように育ち切った高い鼻が「ポキン」と折られて、改心出来るものは幸いである。
だが、ほぼほぼ改心の素振りも見せぬところを見ると、もはや守護神ともどもお出直しとなるであろう。
すでに『弥勒世』は始まっている。
だから『手放し』で進める時となっている。
五感の岬に立つものだけが、風招(かざおぎ)する神々の招きに導かれゆく。
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