移民と地方再生とSNSと・・・ 《癒奏術・弥勒・序》
日本も移民政策が進み外国人が増えつつある中、様々なトラブルが起こっている。
言語も文化も、そもそも「常識の基盤」が違うのである。
それが調和に至るには当然時間もかかるだろう。
そんな時間の中で、ぶつかり合い、傷つけ合い、癒し合いをしながら、やがて「折り合う」こととならねば、調和へ至ることはない。
昔の人はよく言ったもので『郷に入りては郷に従え』という、【当たり前】の理(ことわり)がある。
それは、その場その場(郷)の「自然」があり、そこに住む人はそれらと「調和」してきた『型』というものが存在する。
そんな自然との調和、その場ゆえの調和というもの。
そして、そこに代々暮らしてきた人々の「人と自然の調和の在り方」という『型』である。
そんな『在り方に従う』ということが『郷に入りては郷に従え』ということ。
例えば、まず外国に住むとなればその国の「言葉」を学び、その土地の「風習」を学び、その地域の人と「調和(仲良く)」なることが先決である。
人は一人では生きてはいけないのだから当然であろう。
それは、取りも直さず「お互いが味方」となることである。
これはなにも外国に移住するということだけでなく、人の「基本」であろうはずのもの。
だが現代の日本人はこれが出来ない。
海外から日本へ渡ってきた移民には、不法滞在や密入国もあれば、学びに来ている者、ビジネスで日本から儲けようと来ている者、日本が好きだから来ている者、様々あるだろうが、その中には「日本で足りない部分を補う」ためにやってきた外国人も多い。
日本の人材不足をある意味「助ける」ために来た外国人である。
彼らは「日本人が人材不足で困っている」と知っており、それと自分の人生を重ねて来ているだろう。
だが事情をろくに知らない人は、どの外国人も同じように見る。
もし、彼らが日本人より「厚遇」で処されていたら、不満を募らせることだろう。
だが実際は「安い賃金」で使われている。
だから日本人は「受入れている」という側面がある。
そんな心を隠しながら「安いのは人権侵害だ」と綺麗ごとを述べ、厚遇で処されたなら「なぜだ」と不満を述べる。
日本へ渡ってきた外国人は、当然「日本のやり方」というものを学び、そのルールに従いながら仕事をし、生活をすることとなる。
だが、自身に染み付いた『常識』は一朝一夕には変わらない。
「郷に馴染む」ためには時間が必要である。
だが、その時間の中で「馴染もう」という意志が無ければ馴染むことは出来ず、もし心に「郷」に対する嫌悪感が生まれれば、馴染もうとする意志は削がれ「意固地」となり、「馴染む」という「調和」から「対立」という「分裂」へと進むこととなる。
現在、日本には『地方再生計画』というものがあり、過疎化した地域に都会から移住する人々が居る。
人が足りないゆえに「過疎」となった村を再興したいと願うから、その土地に馴染みのない人を呼んで再生しようというものである。
しかし、所々で問題が起き、再生計画が破綻するところも少なくない。
それらの原因の根本は結局のところ「人の心」に起因するという当たり前のことなのであるが、もっと言えば「覚悟」がないのである。
どちらも「今までの常識」というものを改めなければならないのに、その根本が「改められない」から亀裂を生み「対立」となる。
「過疎化」し行く地域はいわばマイナスからのスタートであり、マイナスとなった要因をつぶしてプラスに転化しなければ「再生」など出来ない。
言ってみれば「ゼロからのスタート」よりも難しいのである。
そんな「マイナスからのスタート」であるということの意味も理解せず、そして覚悟もせずでは上手くいくはずもない。
新しい道を切り開くということは、何度も何度も進んでは確かめ引き返し、また進んでは確かめ引き返し・・・ということの繰り返しである。
その繰り返しを厭わぬ「覚悟」が必要であるが、そんなことをしたことがない人が行けば、進めなくなればいとも簡単に挫折する。
「どうしてすぐに行き止まりなんだ!」と文句を言ったところで、それは当たり前のことであるのにそれがわからない。
「再生計画」という入口の先は「未開の道なき道」であるが、それがあたかも「敷かれたレール」であるかのように思っている。
そして「自分は再生しにきた」という「正義感」が、自分が常に「正義」であると錯覚させる。
けっして自己の常識と他者の常識の「違い」など見ないだろう。
いや、最初は見ていたかもしれないが、進んでは足止めされ引き返しを繰り返すうち、心に叢雲が湧きやがてそれが嫌悪の感情を湧き立たせ、やがて「分離」と「対立」へと向かわせる。
そうして今度は自身の「嫌悪感」の「味方」を募る。
本来「味方」となるはずの「郷」と「敵対」することとなり、そのため同氏を募るように「SNS」が使われる。
「自分は正義」の旗を掲げて、一緒に石を投げる同氏を募る。
いかに自分は正しく相手は間違っているかを「一方的」に喧伝し、一緒に「石を投げる」同氏を募る。
SNSを「正義を遂行するためのツール」だと思っているなら大間違いである。
これは「分離」と「対立」を加速させるためのツールとなる。
それもこれも「使う人次第」であり、ツールはあくまでツールであって正義も悪も何もない。
道具にもなり凶器にもなる。
SNSの「言葉」に左右され、その道具を使っている者の「意図」を見ず、結局のところ「魔女裁判」よろしく中世のころのまんまの醜態をさらしておきながら、自分は中世の人よりも「進んでいる」と思い込んでいるわけである。
「言葉」しか見ない人は簡単に『情報操作』に操られる。
「一緒に石を投げて」という意図に振り回され、全く無関係の人間が一緒になって「石(意思)を投げる」ことになる。
そこには「自分の心に溜まった灰汁」を吐き出すために乗っかって、一緒に「石を投げている」ものも多いだろう。
そんなもののどこが正義であるか?
そんなものに頼った時点ですでに「悪」である。
「あいつは魔女だ」と言って『不在者裁判』しているのに等しい。
「再生計画」という「過疎地」の人々よりも「高給取り」の支援を受けて、自分は正義という「ただの癖」を押し付けて、それが理解されなければ「魔女裁判」へと向かう。
それは「再生」ではなく「乗っ取り」であろう。
そんな態度が垣間見えれば、郷は「防衛」するに決まっている。
防衛するため団結するに決まっている。
「移民」をどれも同じように見ているうちは、日本人が地方を「再生する」など夢物語であろう。
そうして「政府が勝手に・・・」と文句を言っているが、それは今の日本人の在り方そのままの映しである。
「馴染む」という『調和』を忘れた日本人の政治も『調和』などあろうはずもなく・・・・
これからどんどん「勝手」がまかり通ってゆくだけである。
それは「政治家」が悪いわけではなく、日本人の「在り方そのもの」の『映し鏡』でしかないことを悟らねば、川が流れるようにただ流れゆくだけである。
「魔女裁判」が至極当然のように、まるで「正義」であるかのような行いを続けているから、「魔女裁判」のように強引に物事が進んでゆくだけである。
やっている方は「正義」のつもりなのであるから引くことは無い。
だから世界は壊れ行く。
神が壊すまでもなく、人が壊し行くだけである。
ワクチンを打たないことで「魔女」とされ、マスクを付けないことで「魔女」とされるように、あちこちで様々な「魔女裁判」が繰り広げられる現代は、中世の魔女裁判など比ではない。
相手の「言い分」など聞く耳無いであろう。
だから政治が人の言い分を聞くはずもない。
世界が『左傾化』しているのは、殆どの人が「左傾化」しているからに過ぎない。
『左傾化』とな何であるか?
もはや世界の争いは「約束」されているも同然である。
そんな世界で「魔女」となり「魔王」とならねばならぬのが『神』というものである。
少しは「素戔嗚命」の『悪』が何であるかわかるといいが・・・・・
『糺の森』に鎮座する『玉依姫』が何であるかわかるといいが・・・・・・
『糺の森』の禊ぎ水 何を禊ぎ 何を糺すか
玉依姫の御心は 美しけれど『魔』と映る
人の心の水鏡 平らけくする禊ぎなり
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