地方移住の軸(・)と側(〇) 《癒奏術・弥勒・序》





地方再生の綺麗事の名のもとに地方移住者が増えているが、なんとなく上手くいくところと、全く上手く進まないところが当然出てくる。

それは、日本人が「側(〇)」の理解に対して明確性を欠いているところにもある。



そもそも、歴史的に国に「壁」を設けることを必須としてきた外国と、城以外には「壁」のない日本では、そもそも認識が異なる。

城を軸(・)として広がる(*)国造りと、壁という側(〇)の中に町を飲み込んだ国造りでは、「在り方」そのものが違い、思考の土台となる「常識」が全く異なる。

だから、日本人は都会も地方も明確な外殻の違いが判らず「同じ」と見てしまう。



これを簡単に例えるなら、アメリカという「合衆国」を見てみればよく分かる。

これは州や地域によって「民主党支持」「共和党支持」を示したものであるが、これを見ると都市部は青色の「民主党支持」が多く、田舎と呼ばれる地方は赤色の「共和党支持」が多い。


例えば、民主党支持の都会から民主党支持の田舎へ移住するのは容易い。

だが、ゴリゴリの共和党支持者ばかりの田舎へ移住すればどうなるか?


これらは単なる「思想」だけの問題ではない。

そこに暮らす生活全般に於いて根付いている「日常」がそうさせているからで、その日常という基盤の上に「思想」が生まれる。

だから、青から赤へ移住するということは、全く違う生活信条のところへ移住するということであり、青の「思想」を軸にしていたら生活自体が「成り立たない」のである。


「思想信条は自由」という綺麗ごとは「現実」を無視して為されていいものではない。

それが現実の流れや巡りを歪ませるなら、排除される方向へ向かうのは『自然の摂理』である。



アメリカのように明確に色分けされていればわかりやすいが、日本ではそんな色分けは為されていない。

特に「政治的区分け」が為されていないというだけのことであり、わかりやすい形での「見え方」が無いというだけで、そこには明確な「違い」が存在している。

それを理解せずに「同じ」という人間特有の思考法で考えるから間違う。

一見して見えはしないが、そこには確実な「正義」「善悪」「取捨選択」の『違い』が基準として存在している。



アメリカの思想の色分けは「生活」そのものの違いから生まれているものであり、だから地域によって「違い」が『後天的』に生まれているのであって、『先天的要因』は「その場所」にある。


だから「郷に入りては郷に従え」というのである。



地方から都会に出てきたものは、都会の信条に合わせて生活を変えて行く。

それと同じように都会から田舎へ行けば、田舎の信条に合わせて生活しなければならない。

それが「自然の摂理」である。




世界が壊れ行くのは都会の信条に「一律に」合わせようと世界が向かっているために、田舎が過疎となり壊れていっている。

それは「自然との共存」を否定することであり、だから都会も壊れていくことになる。

都会というのは自然から離れたわけではなく、自然を「感知」しない生き方が常態化したものであるにすぎない。


かつて、都会の似非自然保護活動家が「森林伐採は環境破壊」だなどと言ったために、山で木々の「間引き」が行われなくなり、そこから「山の崩壊」が始まった。

山の動物が郷へ降りてきて農作物を荒らすようになり、山は「生命」を育む力を失っていった。

様々な「価値観」が都会主導となり、金銭の価値観も、物の価値観も「都会」主導となったことで地方が過疎化していった。


だが人は自らの「価値観」がそうさせているなどとは想ってもいない。

自らの「現実認識能力」が衰えているなどとは夢にも思わないだろう。

仮想の二次元世界に落ち込んだ人の思考は、三次元を認識する能力すら失われつつある。

そして、二次元の「平面上」において三次元を理解し、四次元を想像し、五次元に思いを馳せる。




生活様式、形態が『違う』という大きな差異を無視しているからいつまでも『対立』せざるを得ないわけであり、どちらが正しくどちらが間違っているというものではなく、それは「場所」に起因するという単純な「事実」に気付けないでいる。



海外に行けば言葉は違い、文化は違い、食も日常のあらゆるものが違う。

まずはそこに「同化」することから始めるのが当然である。

そのうえで、そこの足場に立った「立ち位置」から始めなければならない。

それは国内においても何ら変わることはない。




グレートリセットとは、そんな「違い」を『世界統一』という『真っ平』にしようというのである。

それは、「どちらかの信条に統一する」というものではない。

『価値のリセット』である。


偏った価値の対立が争いを生む。

それらをリセットしようというのである。



だからとっとと手放せと言うのだが、自分の価値観が問題であるなど思ってもいないから手放せない。

「手放し」という『言葉』だけが先走りして、自分の価値観に都合よく「手放し」が利用されているばかりである。


「価値観の手放し」が自分の意思で出来るのは天王星が牡牛座にいる間。

双子座に移動すれば、握っているものは嫌でも揺すられ振り回され「剥奪される」こととなるのが『目に見える』ようになる。

今はそれが『見えていない』というだけである。